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それがホンモノならいつか見つかるから。

31歳、もう夢みたいなものはなくしたことにした。

''この年で夢を語るのが恥ずかしい''という方の理由ではなく、''夢なんてもたない方が人生に期待をしなくて済む''そんな生きやすさを見つけた大人のフリをしたくて、夢みたいなものをなくしたことにした。

みんなにはまだ夢があるだろうか?

僕ぐらいの歳になるとそろそろ''家族がいて平穏に暮らせればそれでいい''、そんな夢を語り始める者がちらほら出てくる。

そんな人生への理解を深めた終盤のような大人に相当な憧れをもちつつも、誰かの成功を手放しで喜べるにはまだ青く、平穏な暮らしで満足してたまるかよ、うぜぇ、うぜぇって中々上がっていかない自分のステージを心の中で嘆いては、

''おめでとう''

って大人のフリをしている。

かつて同い年のプロデビューに眠れなくなるぐらい嫉妬に狂っていた僕も、いつしかよく眠れるようになった。

僕の優秀で迷惑な嫉妬という感情のセンサーはそうして1つ、またひとつと自分の夢ではないものを教えてくれる。大人になると夢がなくなるのではない、生きてきた長さが1つずつ自分の道ではないものを潰していくのだ。

しかし、平穏な生活に辿り着くにはまだ早いと思うのだが、なぁみんなそれは君の本当かい?

同じ時代を生きた同世代達は僕と同じようにポケモンを愛し、あの時、日韓に興奮したんだよな?

じゃあ今みんなにあるのは、平穏な暮らしがしたいではなく、僕と同じように

何者かになりたいのになれない焦りで眠れない夜ではないのかい?

夢のあきらめの低年齢化

SNSの登場は知るはずのなかった人々の生活を近づけた。自分の住む街にない光度は適切な距離で見るには温かさを感じる明るさなのに、ちょうどよい距離などわからずに気づくとすぐそこにいて、生活の一部まで侵食してくるから明るすぎて疲れてしまう。

夢のあきらめの低年齢化が進んでいる。

15歳が時間をかけてやっと見つけた"好き''には、もっと好きなやつがいて、それを''得意''としてもう既に認められているやつが東京にはいるらしい。

そんなことを頼んでもいないのにSNSは教えてくれるから、自分程度の好きでは好きなんて言っちゃいけない、認められない''好き''は好きじゃいけない、そう言われている気がするのだ。

そうして15歳の間で今、流行る言葉がある。

''夢はないです''

僕がこの時代に15歳として生きていたらその気持ちがわかるだけに、そこにあるのは寂しさの残る納得なのだ。

SNS全盛、令和の時代。

10年前''夢はもうあるかい?''と問い掛けていた子ども達には今、僕が同い年に掛けるように''夢はまだあるかい?''と尋ねる切なさがある。

こぞって自分らしさを探す時代に

そうして見えにくくなったから見つける必要の出てきた''自分らしさ''を若者がこぞって探し始めている。

かつてはみんなしてツチノコを探していた年齢の子ども達が必死になって''自分らしさ''を探している。

時間を掛けて自分らしさの断片のようなものを見つけて胸を撫で下ろしてもなお、時間が経つと比較と相対の中で''何者''を見ては''何者でもない''ことを自覚してまた苦しくなる。

これは大人の僕でもそうなのだから、難しい人生の問題なのだ。

''人は人、自分は自分''

自分の幸せを誰かに委ねることなく決めることができる人はこの時代に限らずいつの時代も強い。

僕だってそう在りたいとは思いつつ、ふと気を抜くとつい隣の芝が青過ぎて見えることがあるのだから、子どもはもっとそうであろう。

今の世の中の正解が、他者を介在しない''自分らしさ''を生きることに向かう中で、もちろんそうした''自分らしさ''を僕らが見つけて育ててあげることが大事であることはわかった上で、''何者かになりたい"と願う15歳も僕は理解してあげたいと思っている。

「TikTokで踊って何が楽しいかわからない」
「インスタライブして何を認められたいの?」

子ども達なりのこの時代を生き抜く努力は大人の眼鏡では滑稽に見えることがある。何にもならなくて、傷つくだけなんだからやめたらいいのにと言わんばかりの表情は大人が得意なあの表情である。

大人でも生きるのに難しいこの時代は、子どもの世界はもっと複雑で生きにくい。

しかし、人それぞれだからと大人になだめられてもなお、誰かに認められたい、何者かになりたいと思っていて、何者かになれない日々を歯を食いしばって生きているのが子どもである。

そして大人の手前、''これでいい、これが自分の幸せだ''と本当の気持ちとは違うところにある自分で必死に本当を殺しているのも子どもなのである。

大人の見せるあの表情に子どもは似たような形に整えられていく。自分らしさを願った大人が描く子どもらしさに収まっていく。大人の顔色を伺った作り物の''自分らしさ''は寂しさを含む''子どもらしさ''ではないか?

自分らしさを見つけてもなお、比較と相対の中で苦しくなり、傷つかないようにと差し伸べられた大人の手に皆同じような自分らしさを振る舞う。

15歳の言う「自分がわからない」はそうして複雑に絡み合った色んな人の''あなたらしさ''でできている。

ではどうだろうか?どうせわからないのなら、目指したらいいのではないか、いっそ答えの出ない何者を。

ホンモノはいつか見つかる

大人だって、子どもだって誰かにとっての何者かになりたいと思っている。

人と比べない、自分だけの幸せを見つけてもなお、また憧れに胸を締め付けられてしまうのが人の弱さだ。

それなら目指したらいい、一度何者かになることを。自分のしたいことを大人の都合で作り変えて無難に収まるよりは挑戦してみた方がよほどいい。

その海はとても荒れているだろうけど、舟に乗らないとわからないこともある。

だからその航海に乗り出す若者にお守りのような言葉を託そう。あの日報われない日々を嘆き、心折れそうになった時に僕に掛けられた震えるぐらいの言葉を残しておこう。

''それがホンモノならいつか見つかるから''

僕ら大人は知っている。答えはシンプルで結局見つかるまでやり続けるしかないのだということを知っている。どれだけ嘆いても進むしかないのだ。

「先生、今なんでこんなにも頑張ってるのにって思ってるでしょ?」

「はい。マジで報われないです」

「先生の言う報われた人ってどんな人?」

「いゃみんな凄い人達です」

「じゃん。そういうこと」

「え?」

「先生が砂糖1粒だとするね。先生以外はみんな塩なの。でも似てるでしょ?白いし。たくさんある中で''僕を見つけて''って言っても、何らかの形で手に取られないと一緒くたにしょっぱいものとして味わわれちゃう。せっかくこんなに甘いのにって嘆いても、見つけてもらえなかったら他と一緒なの、あなただってしょっぱいの」

「どうしたら?」

「その中で赤く色づいてみたり、大きくなってみたり。今の色をしていたら、今の大きさだったら見つからないでしょ?」

「確かに」

「だからね、誰かの成功や生き方が気に入らなくてどうしようもなく嫉妬して眠れなくなったら、自分の道はここにあると信じてやり続けるしかないの」

「はい」

「大丈夫、それがホンモノならいつか見つかるから」









幸あれ。

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