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#11 ポストプロダクション、または本音探り合い合戦

このnoteは12月25日全国公開の映画『AWAKE』の監督・脚本をした山田篤宏がキャスト編が終わってしまって以前のノリを思い出せるか戸惑いながら書いています

前回キャストの話をすると見せかけて半分くらい僕の高校の話をしてた気がするんですが、そういう流れもありまして高校の同級生有志がオンラインイベントなるものを企画してくれています。

カッチリした会ではないので絶妙に(僕が)グダる可能性もあるかも知れないのですが、そのあたり含めて他とは異質な気もしますので、ご興味ある方は是非ご覧ください。あ、無料なのですがご覧いただくには一度申し込んでいただいて、ZoomのURLを発行する必要があるようです。よろしくお願いいたします。


さて、今回から通常営業?に戻りまして、『AWAKE』制作に関する話題です。一応キャスト編をもって撮影に関しては一通りやりきったな感がありまして、今回はざーっと撮影以降に待っているポストプロダクション、略してポスプロに関する話です。いつにも増して地味で専門的な話ばっかになりますけど…。

撮影期間、と考えるとそのスタートは僕にとっては「演出部チームと顔合わせをしたとき以降クランクアップまで」だった感覚があります。顔合わせしたのが確か2019年2月、クランクアップが2019年6月ですから、正味5ヶ月。ポスプロはそれ以降で、関係者一同が初めて完成した作品を観る「初号試写」までなので2019年12月、てことは約6ヶ月強。というわけで、全体進行としてはポスプロの方が期間としては長かったわけです。

うろ覚えですが映画を作る全ての行程の中で最も大切なのが「編集」と言ったのはたしか黒澤明、また例えば最近では『ラ・ラ・ランド』なんかは一度繋いだ編集を一般向けにスクリーニングしたら酷評を受け、その後編集をやり直してアカデミー賞クラスの作品になった、なんて話も聞いたことがあります。言わずもがなではありますが、「編集」がかくも大事な行程であるということはこんなことからも窺い知れるのではないか、と。

監督は孤独

『AWAKE』のエンドロールでは僕のクレジットは、監督・脚本・編集となってまして、実は自分で編集作業もしています。進め方としては、まず撮影して出来上がった素材を自分でイチから組みまして、一通りできあがったところで、「ラッシュ」というプロデューサー等の限られたメンバーでの試写のようなものを行う。そこで色々意見を吸い上げて、また暫く編集、まとまったらまた「ラッシュ」みたいな感じで徐々に仕上げて行く形でした。

「監督は孤独」みたいなことは色んなところで言われたり、こちらもそう思ったりするのですが、僕の実感としては撮影直後〜最初のラッシュの編集中がハッキリ最も孤独でした。だってそれまではスタッフルームがあったりだとか、現場だったら色んなスタッフ・キャストがいて、蝶よ花よ監督よと何かと気にかけてくれるわけですが、彼らは撮影が終わるや否や解散しておりまして、しかも多くの人は次の現場に既に入ってしまっている。スタッフルームも当然もうありません。気軽に連絡しようにも、「仕事中だしな…」とかなりますし、こちらとしては撮りためた素材を前に「この頃はみんないて楽しかったな…」と夜毎枕を濡らすことになりました。大袈裟ですが。

と、同時にこれは人によってはそうじゃ無い気もするんですが、編集されていない生素材を観るこの頃が僕にとっては「最も落ち込む時期」っていうのもあります。ていうのも自分割とネガティブなんで、カチンコからよーい、ハイ!からのカット!まで入ってる生粋の“生”素材を前にすると、「ああ、ここはもっとこうすれば良かったな」みたいのが次々に浮かんで来るんですね。もちろん、俳優のお芝居や美術等々、当初のこちらの想定を大きく超えていたり、狙った通りだったりというところも今思えば数多くあるのですが…。これは本作に限らず、経験上自分が関わった映像作品全てに共通してこう思っちゃうことが多いので、もう仕方ない癖だと割り切ることにして…いますが割り切れないもので。編集が繋がって、仮の音楽が入って来て、素材にもだいぶ見慣れたあたりで、ようやく客観的に判断できるようになってきたりします。

さて、そうこうして一進一退の編集を繰り返していると、段々とポスプロにもスタッフが参入、ようやく「我が軍」が増えて来ます。この辺りから徐々に孤独な編集作業も終わりを告げ、ポスプロ作業としての活気を見せ始めて来ます。

劇伴音楽

最初に僕やプロデューサー以外でこの孤独な編集作業に入ってきてくれたのは、本作で音楽を担当してくれた佐藤望さんと、彼と一緒に携わってくれた音楽プロデューサーの杉田さんです。このお二人のその献身的なお仕事振りと、以前も書きました通り佐藤さんの素晴らしいセンスには本当に助けられたのですが、同時に彼らがお世辞では無く編集途中の本作を気に入ってくれていた、というのは僕にとって本当にありがたい後押しとなりました。以降、最終的に音をミックスダウンする「ダビング」という作業行程まで、お二人とは一緒に作業をし続けることになります。『AWAKE』は単純に音楽の曲数、という意味でもかなり多かったようなのですが、その全編にわたって素晴らしい音楽を制作して頂けたと思います。

作業に関しては、佐藤さんとも相談して、今回は最初から既存曲を編集に当ててしまい、そのイメージをベースとして作ってもらう、という方法を許してもらいました。全く当てずにイチから作る、という方法も往々にしてあるようです。この方法を取ると、とにかく編集時は回数を観るというのもありまして、容易に当てている既存曲でイメージは固まってしまうものなのですが、佐藤さんが何度もそれを塗り替えてくれたのはとてもありがたかった。音楽を付ける作業は編集の中でも最も好きな行程の一つなので、ようやくこの辺りで楽しんで作業をやっていました。

ピクチャーロック!

編集がある程度固まってくると、よし、もうこれで画は大丈夫ですよという意気込みを込めて「オールラッシュ」と言われる「ラッシュ」のボスステージのような行程が組まれます。これを通過すると「ピクチャーロック」と言って、「もうそこから画の編集(特に尺)は変えるな…変えませんよ」という素材が出来上がります。

その素材をもって、いわゆる「仕上げ」の段階へと突入しまして、まず映像には「グレーディング」と言って様々な色調整が行われます。撮影機材のデジタル化が進みきった現代では非常に大切な行程の一つでして、それこそ変えようと思えばインスタのフィルターレベルで色は変わりますので、全体のトーンはどうするか?屋内、屋外はどう分けるか?シーンによってどうするか?など様々なことを考慮しつつ、最良と思われる形に仕上げていきます。

このグレーディングという行程は映画に限らず昨今の映像制作では当たり前にあるものなんですが、映画ならでは!とビックリしたのがグレーディングするスタジオがホントにスクリーンに映像を映し出して超デケえ!ということでした。もちろん編集時にもスクリーンに映った図は頭の中にあるんですが、いかんせんパソコンのモニターで編集してるっていうのもありまして、改めて「そうか、『AWAKE』は全国の劇場でやるんだよな…」と実感していました。

グレーディングと前後して、CG処理も行われました。CG処理と言っても流石に予算が限られていますので、例えば『パラサイト 半地下の家族』みたいに「実は空は全部CGで〜」みたいなことは一つもないのですが、幾つかのテレビやパソコンの画面は後からはめ込んだ合成だったりするのと、あとはニュースやらニコ生やらのテロップ合成、そしてタイトルとか、下記の冒頭シーンのいわゆるCGっぽいやつとかですね。

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※この画面に出てくるような評価値やタイトルのデザインはノンクレジットですがRayくんという非常にセンスのいい知人の映像ディレクターにお願いしました。タイトル、カッコいいので是非注目を!

と、同時に、音の方は音の方で「整音」という作業に移っています。音の要素を大きく分けると、役者のマイク経由で入っている「台詞」、ガンマイク(よく撮影風景とかで出てくる竿についたでっかいやつ)とか経由で入る「背景音」、後から入れる効果音とかの「SE」、そして「劇伴音楽」となるわけですが、これらがそのままだとゴチャゴチャになってる状態なんですね。これを一つ一つ取り出しては綺麗に磨き、さらにバランスを調整して、一本のミックスに作り上げる、という作業になります。

以前もちょっと書きましたが、これらの要素は普通に映画を観ていると「まず気がつかない」ですが、それは気がつかないようにうまくやってる誰かがいるからなわけでして、この行程で変わることも相当あります。例えば、わかりやすいところでは居酒屋のシーンなんかでは実際いる多勢のエキストラはメインキャストのセリフを邪魔しないように本来は無言で、喋っているフリをしているわけですが、そこに「オンリー」と言って撮影時に後撮りで音だけ録っておいた音を付け加える、みたいな作業をしたりします。

そうして、ついに迎えるのが「ダビング」と言われるステージです。これは、音のミックスダウンをする行程なのですが、これをもって作品としては一旦の内々の完成、ということになります。この時にいるのはプロデューサー、整音に関わったチーム、そして上記音楽を作成した2名だったのですが、作業終了後にささやかな「乾杯」なんかもして、撮影時の「クランクアップ」とはまた別の静かな達成感に包まれる瞬間となりました。

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※というわけでついでに完成時の記念写真なんかも一枚。ダビングも映画用なんで画面がデカい!

そして初号へ…

そんなわけで出来上がった作品は、もう何度か書いているめっちゃくちゃ緊張する一大イベントの初号試写へと運ばれていきます。初号が終わると長かった「制作期間」は完全に終わりを告げ、一旦「監督」としての荷は降りるかたちとなりました。

これは第一回でもチラッと書いたのですが、編集作業を通じてやっぱり思うのは、「感想を言うのも技術、受け止めるのも技術」ということです。ごく稀に、新鮮な意見を聞きたくて全く初見の人に観てもらったりはしますが、それ以外のポスプロに関わる人たちは、基本的にみんな脚本は読んだり、既に何度も観たりしているわけですから、単純に「面白い!」みたいな感想をもらうことはまずない。まずないですし、思ってても言えるか、と言うと躊躇しちゃうんじゃないかと思います。んじゃあ肯定的なことを言わない感想がクサしているかと言われると、そういうわけでもない。間違い無いのは基本的にはみんながみんな、例え今の状態が気に入ってくれていたとしても(その逆だとしても)、より良い状態に持って行くために提案をしてくれる、ということです。そんな幾重にも巻かれたオブラートの内側の種のようなものをどう拾うか?どう生かすか?または捨てるか?監督として試されるのはそこの取捨選択だったような気がします。

あとまあ覚悟はしてたんですけど、自分で編集してるからってのもあって、とにかく死ぬほど観ました。当たり前ですけど、おそらく現状では世界一観てると思います。手を動かす編集作業の段階は当然として、音楽が入った、音を入れた、色を直した、CGを入れた、等の全てのステージで観まくります。結局頭から通しで観ないと感覚が掴めないことも多いので、なんだかんだその都度2時間を頭から観たりもします。最終的には多分数フレーム単位でカットが変わってたとしても当時は気づいたんじゃないでしょうか。でも、こうやって観まくってると、逆に自分では麻痺して何がいいのかわからなくなってくるんですね…。そこで、上述したような他人の意見、がやはり大事になって来るわけです。また、自分自身もある程度あえて期間を空けてから改めて観ると、それまで気づけなかったことに気づく、みたいなこともありました。

そんなことの反動もあり、初号が終わったら一旦こちらも映画のことをスコーンとあえて忘れまして、しばらく観ていなかったんですが、再び改めて今度は出来上がった作品そのものにじっくり対峙しなければいけない行程がやってきます。それが「宣伝」です。

次回からは、「宣伝」について書きます。