人生のピークは過ぎ、あとは下るだけ…。「中年の危機」に直面した僕は、ようやく自分の心と向き合うことを決めた
ある日、僕は自分の影に捕まった
44歳。この4度目のゾロ目を迎える前に、僕は背後から飛び乗られて捕まえられた感覚を覚えた。何にかというと「自分の影」にだ。
影は随分と前から本来あるべき位置を離れ、僕の背後にピタリと立っていた。さながらサッカーのマンマークのように僕と一定の距離を保ちながら存在していた。そして何がきっかけだったのだろうか、そのタイミングで勢いよく覆い被さってきたのだ。
僕は不意を付かれたのと、これまでにない種類の重たさに驚いてしまった。
その影の存在はそれよりもずっと前から認識していた。30代の時にも同じように背後に立つことがあったのだが、僕は気付かないフリをしてやり過ごしたり、ある時は強引に振り払ったりもしていた。
だが今回、見事に捕まってしまった。
もちろんこれは比喩である。実際に僕の影が意思を持って動いたり害をなしたりすることはなく、あくまで僕がそんな感覚を持ったという話だ。
ただ、その影に捕まったのと前後して、僕はよくわからないモヤモヤや不安、焦燥を感じるようになった。そして、しんどい日々が始まった。
常に胸のあたりに引っ掛かるものがある。それはほんのりと熱を帯びていて、脈を打ちながらうねうねと動きまわる。
「気持ち悪いけど少し我慢すれば収まるはず…」
そう思いながら、僕はじっと耐える。すると確かに一時は収まるのだが、しばらくするとまた元に戻ってしまう。
落ち着かない毎日が続く。僕は心を鎮めようと深く呼吸をする。少しリラックスする。だがまたすぐに得体の知れない不安感が僕を包み込む。
そういうことを繰り返しながら、どうもこれは消えて無くなるものではないということがわかると、僕は渋々であるが認めることにした。
うっすらとした予兆はあれど、突然来た自分の影に捕まるという感覚。そこから続く心の揺れ。これは僕がメンタルに重大な問題を抱えてしまったという合図に違いない。
「ミッドライフクライシス」「中年の危機」…突きつけられるパンチライン
僕はこのモヤモヤや不安は自分の今の環境、主には仕事面が起因しているのではないかと考え、何かを変える必要があるように感じた。
ずっと前向きに取り組んできた仕事だったが、40代に入ってからは停滞感を覚えることが多くなり、いまいちモチベーションが上がらない。
がむしゃらにやってきた20~30代を経て、自身を取り巻く環境は大きく変わった。職場では役職についたが、時を同じくして子宝に恵まれた。仕事よりも優先すべきことがあると知り、僕は軸足の置き方を変えた。
公私共に調整事やミッションが多くなる一方で、自分の成長をダイレクトに感じさせてくれるものが少なくなっていった。気力と体力の衰えを感じ始めていた。
いっそガラリと職場環境を変えてみようかとも思い、転職サイトを眺めたり起業について調べたり、個人でもできそうな規模の事業継承のマッチングサイトにも登録したりもした。
MBAや中小企業診断士の資格取得を検討したり、データ分析にも必要性を感じて勉強を始めたりと、妙な焦りの範囲は四方八方に広がっていった。
要は迷走しているわけだが、果たしてこれらが「自分が本当にやりたいことなのか?」「このモヤモヤを解消するものなのか?」と考えると、どうもしっくりとこない。
気持ち悪さを抱えたまま時間は流れていく。無理していないと言えば嘘になるが、それでもうつ病というほど重度ではなさそうなので医者にはかからなかった。これまで同様に仕事をこなし、私生活もとくには変わらなかった。
見た目に何か変化があるわけではなくあくまで自分の内面で起こっていることなので、まわりの人が僕の変化には気付くことはない。
ただ、影は依然として僕に覆い被さったままだし、それは放っておくと大きくなっていくような気がした。このままだとどこかの段階でその重みに耐えきれず、潰されてしまうようにも思えた。
ある時、僕はネットで自分が抱えている問題について検索してみた。素人判断の変な知識を入れたくなくて、それまではあえて避けていたのだが、我慢も限界に達していた。
もちろん調べるのは自分の影云々の話ではなくて、この胸にべっとりとまとわりつくモヤモヤについてだ。正直なところ、答えがあるとは期待しておらず似たような人がいるかも…くらいな考えだったのだが、案外すんなりとそれらしきものがヒットした。
どうやら「ミッドライフクライシス」「ミドルエイジクライシス」「中年の危機」などと呼ばれるもののようで、呼び名は微妙に違いながら意味するところは同じで、どの記述を見ても大体下記のようなことが書いてあった。
キーボードを叩いてわずか数分、誰にも相談もせずインスタントに結論付けるのもどうかと思うが、僕はこれだという確信を持った。
自分と同じような状態の人が少なくないということが、僕を安心させた。
“第二の思春期”を笑いはしたものの…
モニター上でひと際目立つ“第二の思春期”というフレーズ。それに思わず笑ってしまいながら、併記されている「中年の危機」という文字を眺めて、しみじみと自分が中年なんだなと考えた。
年齢を考えると誰がどう見ても立派な中年だ。それは間違いない。だが、自分の中では30代はもちろん、なんなら20代、もっと言うと学生時代からだってさほど変わってはいない気持ちがあるからやっかいだ。
わりとそういう人は多いのではないだろうか。それとも僕だけが精神的に成長しきれていないのか…。
だが現実とは残酷なもので、鏡を見るとそこには年相応の中年男性が立っている。体重は20代の頃より10kgは増えているし、上半身のたるみが目立つ。白髪も増えてきたし、顔の皺やシミも気になるようになってきた。
体重計に表示される体内年齢は実年齢とピタリと一致し、ここでも「お前は中年だ」と声高に伝えてくる。
しかしそんな現実を突きつけられても、自分の中では「中年」というフレーズがしっくりこないのだ。
自分という人間を捉える際に、年相応の変化を遂げる容姿はあまり問題とせずに、年相応の変化をしきれていない中身の方を優先させている。きっとそんなところなのだろう。
僕は何となく、自分が抱えるこのギャップにこそ、モヤモヤや不安、焦燥の原因があるのではないかと思った。
10代の通過儀礼である思春期は、急激に大人になり始めた体とそれに置いていかれないようにする心との間で引き起こされる。もしかしたら数十年の時を経て、同じことが今の自分に起こっているのではないのだろうか。
だんだんと衰えていく体と、まだ若さにしがみついておきたい心。いったんは笑った“第二の思春期”を、僕はまさに今迎えてしまっているのだ。
それに気付くと同時に「なぜ僕の内面は年相応ではないのか?」という疑問も湧き出た。しばらく考えてみるとその答えのようなものに思い当たった。
振り返ると、これまで自分の心の中でトラブルが生じた時、僕はそれと向き合うことを避けてばかりいた。その自覚は大いにある。
怒りも悲しみも悩みも、あらゆることをうやむやにして、はぐらかし、自然と収まるのを待った。
それは意図的なものであり、「はっきりと見えすぎたらしんどいから、薄目でぼんやり過ごすくらいがちょうどいい」と本気で思っていた。
「人生薄目」をモットーに、自分の内側で問題が起こった時はその輪郭をぼんやりと感じつつも決して直視はしない。そうやって最後までのらりくらりとかわし続けるつもりだったが、僕は自分の影に捕まって身動きがとれなくなってしまった。
要するに自分自身に真剣に対峙してこなかったわけで、その無責任なスタンスが自分の内面的な成長を止めていたのだろうと、今になって思う。
僕はきちんと怒ったり、悲しんだり、悩んだりすべきだったのだ。不格好に傷ついて倒れて、それでも砂を掴んで起き上がって、でこぼこになった年相応の心を手にすべきだったのだ。
目を細めて問題を先送りにし続けた結果、自分の内側からこれまでにない種類の問題が立ち上がった。そしてそれは僕のつるりとした心では解決できそうにないものなのだ。
気付けば人生のピークが過ぎてしまおうとしている
上記で引用したコラムの続きに、このようなことも書かれていた。
これまでの僕は人生を螺旋階段のように捉えていた。同じようなところをグルグル回っているようにも感じるが、それでも歩き続けるといつの間にか高いところに登っていて、見える景色も変わるものだと。
僕は仕事もプライベートも自分なりに真剣に取り組んできたつもりだ。基本は楽しみながら、ちゃらんぽらんだが歯を食いしばることもあったし、成功体験も積んできた。
歩みを続ける中で、時に自分の心がざらついたり疲弊したりすることもあったが、できるだけ問題視しないようにしていた。
意図的に直視を避け、むしろそれこそが自分の強みとさえ思っていた。そうやって自分を押し殺しながら、ただただ目の前にある段を登っていった。
だが、これだと行きつく先が設定されていない。僕はこれから先も延々と登り続けるしかないのだろうか。頂点はどこなのだろうか。下りる時のことを考えられていないこの認識は、そもそも破綻しているのではないだろうか。
そうなのだ。僕たちは登り続けるだけではなく、どこかの時点から下りていかなければならないのだ。
そのことに気付いた僕は、それまで登っていた螺旋階段から身を乗り出し、意を決して向こう側の観覧車へと飛び移った。
そしてそこから見える景色を眺めた。するとまさに今、自分が頂点付近にいることを理解した。
観覧車がじわじわと高さのピークを迎え、そこを通り過ぎていく。一定のスピードで。進む方向は決まっていて、元の場所に戻ることはない。
足元の風景がゆっくりと、しかし確実に近くなっていく。建物や行き交う人たちが少しずつ大きくなっていく。僕はそれを見ながら物悲しい気持ちになる。
そう、これは悲しくて、でも避けられないことなのだ。そう理解しながらも、頂点から見える景色が自分の意思とは関係なく過ぎ去っていくことに、僕はどうしても抵抗感を覚えてしまう。
だが、これから下っていく過程で今までと違う景色に出会えるのもまた事実だ。頂点の時ほど遠くを見渡せられないだろうが、そこで見えなかったものが見えるかもしれない。
歳を重ねることで気付くことがある。心が疲れたからこそ感じられることもある。そう考えると下るだけのように思える残りの人生も、それほど悪くない気がしてくる。
人生のピークが過ぎ去ろうとしている今、僕は僕を捕らえるこの影に押し潰されないよう、これを飼い慣らさないといけない。つまりそれは自分自身と向き合うことだという直感がある。
僕は自分の心に目を向けて、それをあるべき形に整えることを決意する。今度ばかりは目を細めずに。
これから少しずつ、その過程を記していこうと思う。