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『歴史探偵』「徳川四天王」【感想】

★『歴史探偵』「徳川四天王」
・NHK
・2023年5月31日(水)22:00~22:44

大河ドラマ「どうする家康」で注目の徳川四天王。家康の4人の家臣、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政の知られざる活躍に迫る。長篠の戦いを勝利に導いた酒井の「秘密の奇襲ルート」を現地調査。小牧・長久手の戦いで家康を救った榊原と本多の知略とは?関ヶ原の戦いの2年前から井伊が仕掛けていた大名への調略!自筆書状から見えてきた「人をその気にさせる」交渉術に迫る。大河ドラマで四天王を演じる4人の俳優も登場!

https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/QG6KR8YZYN/

 徳川家康(天文11(1542)年生まれ。松本潤さん)を天下人に導いた4人の最強家臣を「徳川四天王」といいます。酒井忠次(大永7(1527)年生まれ。大森南朋さん)、榊原康政(天文17(1548)年生まれ。杉野遥亮さん)、本多忠勝(天文17(1548)年生まれ。山田裕貴さん)、井伊直政(永禄4(1561)年生まれ。板垣李光人さん)の4人です。
 年齢順は、

 酒井忠次>>徳川家康>>榊原康政=本多忠勝>>井伊直政

となります。

1.最年長の酒井忠次


 『歴史探偵』が取り上げたのは、「長篠の戦い」でした。
 武田軍の騎馬隊対策に馬防柵を築いたものの、火縄銃の射程距離は50mと短く、馬防柵に向かって武田軍が攻めてこないと役に立ちません。そこで、徳川家康は、山頂の陣地から山麓に降り、徳川軍は馬防柵から出て武田軍を挑発したと聞いています。番組では、
松山越え
つまり、「東三河の旗頭」の酒井忠次が、豊田藤助の案内で険しい山道を越えて武田軍の諸砦を落としたので、武田軍は退路を絶たれ、馬防柵へ突進するしかなかったとしました。

2.知略に優れた榊原康政と本多忠勝

 榊原康政は、大樹寺で学んでいただけあって、頭がよく、書く字も綺麗だったそうです。

 『歴史探偵』が取り上げたのは、「小牧・長久手の戦い」でした。
 羽柴秀吉はなぜ小牧山城を攻めなかったのか?
 それは、榊原康政がこの城を劇的に強化したからでした。押し固める工程を省略した突貫工事で、わずか5日程度で高さ8mの土塁を築き、その奥にも高さ8mの土塁を築きました。(2重にしたので、土塁と土塁の間を徳川軍が移動しても、敵には見えませんでした。)

 あと、心理戦。有名な罵倒「檄文」。結果、榊原康政の首に、10万石という懸賞金がかけられました。

十万石の檄文 榊原康政
 徳川家康より6歳年下、同じ徳川四天王の本多忠勝とは同い年。
 家康は同盟していた織田信長の死より、頭角を現した家臣・羽柴秀吉との対立、1584年、小牧・長久手の戦い(現在の愛知県小牧市・長久手市ほか)に至る。
 この時、37歳の康政は、徳川軍へ攻め入ろうとする秀吉を避難する檄文を書いた。
 秀吉はこれに激怒し、康政の首を取ったものには褒美を与えるという触れを出したと言う。
 豊臣軍は、徳川軍の高名な戦術により長久手で大敗を喫している。
 この姿は、檄文を突きつけた冷静な康政の姿を再現したもの。

名鉄「東岡崎駅」の「十万石の檄文の駒札と榊原康政像」の現地案内文

榊原康政の「檄文」

「夫羽柴秀吉者野人之子出於草来而僅為馬前之走卒信長公寵異之遇一旦時挙拝於将帥食於大邦其恩高似天深似海比挙世所知也。然信長公卒而秀吉忽忘主恩遂因際会謀企悲憤将滅其君後奪其国家惨哉。向拭信孝公今又興信雄公結兵大逆無道不可勝言其誰不疾視之今我寡君深懐信長公奮好切血信雄公之微弱赫然整旅不量勢之衆寡杖大義之當然伐天人之所悪人々豈可賞彼凶悪以汗乃祖佳名於千載乎惟尚専合力於義軍速討彼逆賊以快海内之人心因以告。
 天正十二年三月 康政(判)」

「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、いったん信長公の寵遇を受けて将帥にあげられ、大禄を食みだすと、天よりも高く、海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪を企つのみか、亡君の子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。
その言語に絶した大逆無道 黙視するあたわず、わが主君 源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公の微弱を助けんとして蹶起せり。 
もしかの秀吉が、天人ともに許せぬ悪逆を憤り、義の重きを思うものあらば、父祖の名誉にかけて、この義軍に投じ、以て逆賊を討伐し、海内の人心に快せん」(山岡荘八『徳川家康』)

「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。
しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、黙視するあたわす、
わが主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして蹶起せり」(名鉄「東岡崎駅」の「十万石の檄文の駒札を持つ榊原康政像」の駒札)

「秀吉は卑しい身分の出身だったが、信長公のおかげで武将になれた。だが、その大恩を忘れ、織田家に兵を向ける、人の道からひどく外れた者だ」(『歴史探偵』)

原文は『高田藩榊原家書目史料集成(第四巻)榊原家御系図』(ゆまに書房)2011

 今回の『歴史探偵』がユニークな点は、「圧倒的な武力」「武勇」の本多忠勝の「知略」にスポットを当て、「忠勝の知略、判断力が発揮されるような戦いが繰り広げられたのです」として、「一言坂の戦い」を紹介したことです。

2万人の武田軍に対し、徳川軍は3千人。本多忠勝は300人で殿(しんがり)を務め、無事、徳川家康を浜松城に帰城させました。
(1)放火
見付に火を放ち、武田軍の侵攻を阻みました。(武田軍は、武田方に寝返った天野氏の道案内で、見付の北側を迂回しました。)
(2)待ち伏せ
本多忠勝は、戦場を姫街道の「一言坂」に定めました。
──なぜ一言坂だったのか?
一言坂は狭い一本道でした。(番組に登場したのは、当時の面影を残す姫街道の「長坂」です。)狭い一本道では、戦うのは徳川軍の最後尾の数人と武田軍の最先端の数人だけで、兵数差に関係なく、互角に戦えるからだそうです。(本多忠勝の初陣である「桶狭間の戦い」では、深田の畦道で戦ったので、兵数差に関係なく、織田軍は今川軍と互角に戦えたとか。)

3.交渉力に長けた井伊直政

 今回の『歴史探偵』では、「本能寺の変」後の「天正壬午の乱」での北条氏政との和議交渉と黒田長政に勧誘が紹介されました。

 井伊直政(当時、若干22歳)は、「天正壬午の乱」では、徳川家康に従軍し、旧武田勢の遺臣を懐柔すると共に、北条氏政とも和議を成立させ、徳川家康の旧武田領(甲斐・信濃国)掌握に大いに貢献したのです。こうして、徳川家康の「五カ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)統治時代」が始まりました。

「甲州若御子之原二而、北条氏政ト神君御和睦相調、直政公執筆之五ケ条、氏政点頭御書 壱通」 ※()内が井伊直政が書き込んだ北条氏政の回答。
一、御ゐんきよ様御せいく之事、
(家康へ可給候邸、)
一、さたけ、ゆふきゑひきやく御通可被成之事、
(これおおふしうへ御そうしや二)
一、みなかわ方、水之や両人御通候て可給候事、
(御馬入候て、御としあるへき之事)
一 、 しよのおりへさいし御渡可給候事、
一、あしたかたへのひきやく之事、
(一、小田原へ御ひきやく之事、)
   以上、
(一、七郎右之儀、あわれ小田原まてさしこされ候ハ、、捜州一代御おん二可被諭候由、被仰候砺、)
  十月廿八日

「天文10年10月28日付井伊直政直筆徳川家康覚書」(井伊家家老木俣家伝来文書)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625/1/469

 番組で取り上げげられたのは第2条「佐竹、結城へ飛脚御通可被成之事」(常陸国の佐竹義重と、下総国の結城晴朝への飛脚の通行許可を求める)です。北条氏は、佐竹、結城両氏とは戦争状態にあり、同盟を結ぶ相手の飛脚といえども無条件で通すわけにはいきません。返事は「これおおふしうへ御そうしや二御馬入候て、御としあるへき之事」(これを陸奥守(北条氏照)へ御奏者に御馬入り候て、御としあるべきの事)でした。井伊直政が、東北との関係を理由に、佐竹、結城両氏との手紙のやり取りを認めさせたというのです。
 ちなみに、第3条は、「皆川方、水谷や両人御通候て可給候事」(皆川広照、水谷政村。この2人の北条領内の通行許可を求める)です。かなり具体的ですね。

「関ケ原の戦い」では、どれだけ多くの大名を味方にできるかが課題でした。井伊直政は、黒田長政に狙いを定め、黒田長政を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮しました。『黒田家文書』には、
・田舎製と謙遜しながら黒田長政が望む通りの馬の鞍をプレゼントしたこと
・返事をするために、手紙を書くのではなく、直接出向くこと
・「普段の3倍長く働かされました。くたくたです」という愚痴
が残されています。こうして井伊直政は黒田長政と親好を深め、その黒田長政は、徳川家康にも心を寄せるようになります。そして、毛利一族の調略に成功し、関ケ原の戦いで徳川家康は見事勝利して天下人になりました。


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