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鳶ヶ巣砦奇襲失敗 〜松山越に挑戦するも断念〜

新年一発目はどこへ行こうかと考え、長年行きたいと思っていた長篠合戦時の鳶ヶ巣砦の酒井忠次隊の奇襲コース。日本史の大きな転換点となった長篠・設楽原の戦い。その大きな節目となったのが鳶ヶ巣砦の奇襲。俺も奇襲してぇ!と、長年思っていたのです。そのため、嫌がる息子を連れて強行軍で吉川の公民館から歩き始める。

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のどかな田園風景が広がり、のんびりとした気持ちになります。隣でぶーたれる息子を宥めすかし、徐々に歩いて行くと看板が。

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現地案内看板によれば、天正3年(1575年)、長篠・設楽原合戦の決戦前夜、織田信長の命を受けた酒井忠次は、3千人の兵を率いて豊川を渡り、吉川地区から松山峠を越えて長篠城の背後まで迂回。武田軍の籠る鳶ヶ巣山を攻撃した、とのことです。その際、現地の領主であった豊田藤助の案内で現地の人が知る間道を伝って行ったことが、武田軍の予想外の場所を突くことになったようです。

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思わず右に行きそうになりますが、左の狭い道こそが奇襲コースへ至る道です。うっかり通り過ぎるところでした。

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この道。一瞬、民家に至る道かと思って、怯んでしまいます。整備されていない山道を歩くことの多い身としては、整備されているとドキドキしてしまいます。

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出ました!鳥獣害避け柵!!
柵にかけてある鎖を外し、しっかりと閉めれば大丈夫、ということを田舎暮らしで知りましたので、中に入った後にしっかりと鎖をかけて、改めて出発です。あまりにもここまで道が綺麗なので拍子抜けしてしまいます。

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こんな道が続いて行くのならば楽勝だなあ、と、思っていたのですが、突然道は様子を変えます。

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急に山道になるので面食らいます。しかも結構な山道。斜度を和らげるためつづら折れになっています。落ち葉が積もり積もって滑りやすい。上りはともかく下りは怖そう。

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途中、結構な滑落しそうな斜面が登場したりして、山道に慣れてないと結構怖いかもしれません。岩古谷城に比べるとさほど。。。しかし、登山道が整備されているわけでなく、獣道のようなものに沿って進んでいくのは、なかなかに心細いものがあります。息子がいなければ心が折れたかも。

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心が折れそうなところに「船着山」という表示が出てくるのがありがたいところ。なんか高台があるので、おお!松山峠?と、思ったら甘かった。

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整備された林道に出ました。まだ先がありそうではあるものの、整備された道は助かる!このまま行ってくれればいけるぞ、と、思う。そうこうしているうちに明るい広い場所に出る。

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松山観音堂跡でした。ここまで馬で登ってきた酒井隊ですが、ここから急峻になるので馬を降り、甲冑を脱いだようです。と、いうことはここから急峻になる?

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と、いうことで別れ道で松山峠を目指す。

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すると、こんな道や、

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あんな道が。人の歩く形跡も見当たらず、大丈夫か?と、心配になる。息子も「本当にここであってるの?」と、ぐずる。頭が痛い、膝が痛いと言っては引き返そうとする。「舟着小学校の子はここを登るという。だから大丈夫だ。」と、心は不安だらけで、子供を励ます。しかし、心を折るような道しか続かない

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息子が朝、縄跳びを結構したのと、準備運動不足が祟ったのか、膝横の筋が痛いという。頂上のような部分が未だ見えず、日が陰ると道が一気にわかりにくくなることから、奇襲を断念。無念のリタイアとなってしまいました。

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酒井隊奇襲失敗!!
大きく日本史が歪んでしまう結果となりました。これでは、武田氏が征夷大将軍となって全国制覇してしまい、歴史に歪みが生じてしまう!タイムリープして再アタックしなければならないことになりました。
と、長篠卍リベンジャーズ的展開を勝手に脳内妄想。そうなるとマイキーは武田勝頼で、ドラケンは誰だ?とか、考えてしまう。

しかし帰り道、ここで良かったっけ?と、分かれ道で迷う場面も多く、早めの明るいうちに帰路について正解でした。やはり山道は無理するのが一番危険。次回は松山峠から長篠城へ抜けたいな、とか、狙っていますが、往復するとなると結構な斜度と距離だな、と、改めて思う。距離や斜度より、一番の難敵は、わかりにくい道。草木が生い茂れば道はわからず、虫や蛇、蜂にも相当襲われることが想定されるため、冬しか難しいと思われます。残された時間は少ない!

今年中に必ず鳶ヶ巣砦に奇襲かけます!

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