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武田信玄、木原(袋井市)から一言(磐田市)へ

──もう1つの三方ヶ原

 学者は、徳川家康と武田信玄の直接対決を「三方ヶ原の1回だけ」としているが、私は一昨日の記事に書いたように、
①城之崎城を本陣とした「三ヶ野台の戦い」
②浜松城を本陣とした「三方ヶ原の戦い」
の2回だと考えている。
 どちらも徳川家康が大敗したためか、多くの資料が残されていない。特に「三ヶ野台の戦い」については資料が少なく、学者は「三ヶ野台の戦い」について、「三方ヶ原の戦い」のような大戦ではなく、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦(小競り合い)だとしているのである。


「武田信玄が来た」
と知らせる狼煙を浜松城で確認した徳川家康は、攻撃体制を整えた。

■徳川軍8000
・浜松城で待機  3000(指揮:酒井忠次)
・浜松城から出撃 5000
 ・天竜川を渡らずに待機 3500(指揮:石川数正)
 ・天竜川を渡って進軍  1500
  ・大斥候(偵察隊)    300(指揮:内藤信成)
  ・奇襲部隊        800(指揮:本多忠勝):岩井砦
  ・徳川家康の護衛部隊   400(指揮:徳川家康):城之崎城

 この時の武田信玄の本陣は海蔵寺(堀越城)で、先陣は木原。徳川家康の本陣は城之崎城で、近くの沼で赤飯を炊いて戦勝祈願をし、桶を沼に沈めたことから、その沼は「桶ヶ谷沼」と呼ばれるようになったという。(池宮神社の「御櫃納め」のような神事か?)

 徳川偵察隊(内藤信成隊)が、木原(袋井市)で武田軍に見つかり、小競り合い「木原畷の戦い」が起き、逃げる徳川偵察隊を武田軍が追ってきた。

★徳川偵察隊が武田軍に見つかった場所
・説①:木原→「木原畷(縄手)の戦い」(追手30騎の内、23騎を射殺)
・説②:太田川(三ヶ野川)渡河中→「三ヶ野川の戦い」
・説③:三ヶ野台→「三ヶ野坂の戦い」「三ヶ野台の戦い」

 この様子を岩井砦にいた本多忠勝は、大日堂まで出張って「忠勝物見の松」に登って見ていた。(「忠勝物見の松」は枯死し、現在は「家康公お手植えの蜜柑(ミカン)」が植えられている。)
 『どうする家康』では、本多忠真が「まだ腕は衰えておらぬ」と弓をひくと、その手が震えていた。本多忠勝は「震えておるではないか」と笑おうとするが、どうも様子がおかしい。弓の先を見ると、武田軍が押し寄せてきていた、という演出であった。

※家康公お手植えの蜜柑:徳川家康ゆかりの地に植えられている。原木は駿府城公園(静岡県静岡市)にある。

家康本隊を桶ヶ谷沼近くの岩井砦としているが、城之崎城であったろう。

 実は、徳川偵察隊が武田軍に見つかったのは作戦で、武田軍が徳川偵察隊を追って太田川(三ヶ野川)を越えて西島(磐田市)に入り、大日堂(旧・大甕(おおみか)神社)に向かって、鎌倉街道「三ヶ野(甕野?)坂」を上っていくと、台地(三ヶ野台)の上で本多忠勝率いる徳川奇襲部隊が待っていて、坂の上から攻めた。位置的に不利な武田軍は次々と討たれた(「三ヶ野台の戦い」)が、兵数が多いのできりがない。そこで、徳川家康の護衛部隊は、浜松城へ向け、西へと撤退を始め、徳川偵察隊&奇襲部隊が徳川家康本隊(護衛部隊)の殿(しんがり)を勤めた。

 見付は、三方を磐田原と呼ばれる台地に囲まれ、南は今之浦(旧・大之浦)で、「見付」の語源は「水漬け」だという。
 見付の東の台地を「上野」(現・富士見台)と呼び、「上野端城」と「城之崎城」があった。(「城之崎城」に入った武田信玄は、その縄張りの凄さに驚嘆し、「浜松城はこれ以上であろう」と言って、浜松城攻めを諦めたという。)
 「東坂」を下り、見付に入った本多忠勝は、住民の助けを得て、道路に枯れ木などを置いて焼き、道が見えないようにして、徳川家康が逃げる時間稼ぎをした。この時、泣き叫ぶ女、子供を助けた小坊主がいたが、彼は宣光寺の延命地蔵の化身であった。

 「なんとか煙にまかれず生き延びた武田軍は、「池田近道」の「西坂」を上って見付の西の台地「上野」に来るだろう」と読んだ徳川軍は、大久保隊が鉄砲を構え、坂を転がり落とす石や丸太を準備し、本多忠勝は頂上の「兜塚」(兜の形をした円墳。現・かぶと塚公園)の梅の木に兜を掛けて待ち構えた。

※池田近道:「姫街道」のこと。見付と「池田の渡し」を直線で結ぶ。東海道は見付から南下し、中泉御殿へ向かうので、かなりの遠回りとなる。

※見付の西の台地「上野」:逃げる徳川軍の兵が「喉が渇いた」と言うと、徳川家康は、「上野(うえの)」から「梅野(うめの)」を思いついたのか、「あの台地には梅が沢山ある」と言った。兵が梅干しを思い出すと、唾が出て、喉を潤したという。以降、この「上野」を「梅酢原」と呼ぶようになり、地名も「梅原」としたが、現在の地名は「国府台」である。(山崎闇斎『遠遊紀行』(明暦4年(1658年))には「見付台」とある。)

※山崎闇斎『遠遊紀行』
  当面見来見附台(当面見来す見付台)
  台辺繋馬立裴徊(台辺馬を繋いで立ちて裴徊す)
  太平有象松山色(太平象有り松山の色)
  忠勝勇名倶壮哉(忠勝勇名倶に壮なる哉)

 武田軍は、天野氏の道案内で、見付の北の台地を通って兜塚に出た。それで、兜塚の本多忠勝(騎馬隊)と、西坂の大久保忠佐&忠核(鉄砲隊)は「一言坂」に追い込まれた。今回は坂の上から攻められる事になり、死を覚悟したことであろう。
 さらに武田軍は、兜塚で軍を2団に分け、1団は一言坂の上から、もう1団は南の「水汲坂」を下って先回りして一言坂の下に陣取り、一言坂の上下から挟み討ちした。
 一言坂の下にいたのは、小杉左近率いる鉄砲隊で、
「死兵に刃は向けられぬ。わしの気が変わらぬうちに行かれよ」
と言って本多忠勝を通し、
「家康に過ぎたる物が2つあり 唐の頭に本多平八」
と詠んだという。

※一言坂:坂の途中に「一言観音」(如意輪観音)が祀られていたことが坂の名の由来であるが、現在、「一言観音」は、坂の下の「智恩斎」(上の地図の左上)の山門脇に安置されている。
 現在、「一言坂」は、道幅が拡張され、勾配もなだらかな舗装された車道となっているが、地元の古老の話では、以前は人1人通れるだけの狭い坂道で、勾配も急だったという。

※唐の頭:防水効果があるヤクの毛を使った兜。『どうする家康』では、武田信玄、武田勝頼、本多忠勝が被っていた。非常に高価な兜であるが、「一言坂の戦い」の徳川軍の武将の10人中7~8人が被っていたので、武田軍は驚いたのである。ちなみに、ヤクの毛は買ったものではなく、遠州灘で沈没した船の積荷を引き上げたものであった。なお、この時の徳川家康が被っていた唐の頭(毛の長さ1.3m)は戸田氏が拝領し、現在も保管しておられる(市指定化財)。

 天竜川の「池田の渡し」では、船頭たちが徳川隊を対岸に渡した後、池田へ舟を戻さなかった。また、池田に残っていた舟を行興寺の西の池に沈め、櫓を天白神社境内にあった池に隠した(「舟隠しの池」「櫓隠しの池」)という。河川敷の「豊田池田の渡し公園」(静岡県磐田市池田地先)で再現されている。

 「池田の渡し」の船頭たちの行為を「あっぱれ!」と褒めたい気もするが、徳川家康の作戦は、「偵察隊がわざと見つかり、追ってくる武田軍を退路の三ヶ野坂、西坂等で段階的に討ち、最終的には浜松城で全員討つ」という作戦であったろうから、「武田軍が天竜川を渡らなかった/渡れなくなった」(西進して浜松城へ向かえず、北進して匂坂城に向かうはめになった)というのは、武田軍殲滅作戦の失敗に繋がったと思う。(渡河中は、弓や鉄砲での大量殺人が可能な最大のチャンスである。)逆に武田信玄は、天竜川沿いの諸城を落として、浜松城がある河西(西遠)と河東(中遠(久野城)&東遠(掛川城))との分断に成功した。
 徳川家康の作戦通りに事が運んでいれば、「三ヶ野台の戦い」は「三方ヶ原の戦い」に匹敵する大戦になったであろうし、武田信玄が討たれて「三方ヶ原の戦い」はなかったかもしれない。(「三ヶ野台の戦い」の時は、最強軍団「赤備え」(山県隊)はいなかった。(後の「二俣城攻め」の時に合流。そして、山県隊の合流直後に、3000人の織田信長からの援軍が到着。)徳川家康は、武田信玄を討つ最大のチャンスを逸した。)

※上の動画について:「井伊三人衆」ではなく「井伊谷三人衆」です。

 敗戦を悔しく思った徳川家康は、夜襲をかけて一矢報いた(「挑燈野(ちょうちんの)の戦い」)とされる。

 『遠江古蹟図会』には、松原往還の北・揺(ゆるぎ、石動)の松の巨木の下に、藁人形を並べ、三つ葉葵の紋が入った提燈を持たせたので、武田軍は藁人形目指して突進し、深田に入って動けなくなったところを弓や鉄砲で攻められ、50騎が討ち死にしたとある。

 『遠江古蹟図会』は、著者が実際に現地へ行って取材し、絵を描いた本であるが、なぜか現在に伝わっている伝承と異なることが多い。現在に伝わっている「挑燈野の戦い」は、「坊僧川の揺橋を壊し、布橋とした。武田軍は東から攻めてくるので、川の対岸(右岸、西岸)に武装させた藁人形を立て、幟も立て、松林の松には提燈を掛けて、徳川軍が休んでいるように見せかけた。突進してきた武田軍が布橋を揺橋だと思って渡り、川に落ちたところを弓や鉄砲で襲った。溺死した者も含め、50騎を討ち取った」である。
 以後、揺では、普通の蛍の倍の大きさの「万能蛍」が飛び交うようになり、この万能蛍は、「挑燈野の戦い」で亡くなった武田軍兵の魂だと考えられた。

挑燈野の由来
 元亀3(1573)年10月、甲斐国(今の山梨県)の武田信玄(52才)は、三万五千の大軍で浜松城の徳川家康(31才)の軍四千人と一言坂で合戦をして、家康を討ち敗った。家康軍は退却に際して、急追する武田軍を迎え討とうと計画した。
 当寺この附近は温地帯で、石動といわれた沼地であった。腰までもぐる震田に布橋をかけたり、附近の松林には火をともした多くの提灯をかけ、或いは幟を押し立てて陣地と見せかけて敵を待った。武田軍はそれとも知らず、馬に鞭打ち、怒涛のように押し寄せたが、人も馬も皆深い沼地に落ちてたいへん苦しんだ。家康軍は直ちに反撃して敵に大損害を与え、味方は全員無事に浜松へ帰ることができた。
 村人たちはこの戦いで死んだ将兵の死体を集めて懇ろに弔った。ここを挑燈野といい、夏の夜「万能ボタル」という大きな蛍がたくさん飛ぶのは、武田軍将士の魂であると古老は伝えている。

現地案内板

 なお、現在では、「挑燈野の戦い」は、武田勝頼が攻めて来た時の話の誤伝だと考えられている。

※以上、「三ヶ野台の戦い」について、私なりにまとめてみた。
「三ヶ野台の戦い」については資料が少ない上に異説が多いので、今回の記事の内容が、どこまで史実であるかは不明である。

 たとえば、徳川家康の居場所は、私は城之崎城だと考えているが、時代を経て、鼻欠淵→岩井砦→城之崎城→天竜川の右岸→浜松城と変化している。徳川家康が最前線にいて負けたのでは話にならないので、江戸時代には、浜松城にいて参戦しなかったことにされたようである。

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