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大河ドラマ『どうする家康』第29回「伊賀を越えろ!」の感想

さらば、狼。 ありがとう、友よ。


思わず
「ありがとう、友よ。さらば、ロンリーウルフ♪」
と替え歌を歌いたくなりました。


さて、織田信長を失った徳川家康は、何をすればよかったのでしょうか?

京都付近の織田勢を集めて弔い合戦をすればよかったと思いますが、

明智軍は15000人です。

徳川家康の号令で15000人以上の織田勢が集まるでしょうか?

それに相手の明智光秀は織田勢の重臣だった人物です。

織田勢の中には明智光秀に付く者もいるでしょうから、

誰が味方で、誰が敵なのか分かりません。

そう考えると、とるべき道は1つですね。

三十六計逃げるに如かず。


「逃げろよ 逃げろよ 捕まるな♪」



逃走ルートには4説あります。
頼みの『家忠日記』には「伊賀、伊勢地を退いた」としか書かれていません。しかも、どのルートも最終的には、伊賀国、伊勢国を通るので、『家忠日記』の記述に反していません。

①近江路(甲賀越え):堺→木幡越→柘植徳永寺(『武徳編年集成』)
②伊賀路(伊賀越え):堺→桜 峠→柘植徳永寺(『石川忠総留書』)
③伊賀路(伊賀越え):堺→御斎峠→柘植徳永寺(『徳川実紀』)
④大和路(大和越え):堺→竹内峠→柘植徳永寺(『当代記』、家康文書)

 相互フォロワーのリコさんが「4ルートとも史実。1つが徳川家康が通った道で、残り3つは影武者が通った道」だと言っておられました。卓見ですね。『どうする家康』の脚本家も同意見のようで、

①近江路(信楽→近江路)  :酒井忠次
②伊賀路(桜峠越え)    :石川数正
③伊賀路(御斎峠越え)   :徳川家康
④堺から別ルート      :穴山梅雪
 ※『武徳編年集成』では、穴山梅雪は、近江路を往ったとする。

と分かれて進んだとしました。

ドラマの謎は、
・道案内の長谷川竹が登場しなかったこと
・茶屋四郎次郎が堺で土下座して見送っていたこと
です。
 茶屋四郎次郎も同行して、お金の威力を示したはずです。

考えてみると、家康ほど人運のいい男もまれであろう。かれのこの冒険には、かれのまわりの者がそれぞれ得手々々によって機能的にうごいた。竹もそうであり、商人の茶屋もそれなりに働く。血路をひらくのは武辺者の本多平八郎がひきうけ、山賊の鎮撫には伊賀者たちが働く、といったふうに、一つの機械(からくり)が作動するようにその部品々々が見事に回転した。(中略)梅雪は、思いあわせてみると、家康の替え玉として死ぬためにこの上方旅行についてきたようなものであった。その意味では、梅雪入道でさえ、家康のこの脱出行のなかで、その遺志とはかかわりなく機能的に働いたことになる。

司馬遼太郎『覇王の家』「脱出」

 「神君伊賀越え」の日程は、『家忠日記』によれば、4日には岡崎にいたようなので、推測するに、

6月2日 早朝、織田信長、没。徳川家康、堺発。信楽小川城泊。
6月3日 徳川家康、信楽小川城発。白子から航路。船中泊。
6月4日 徳川家康、早朝に大浜着。岡崎城へ入城。

となります。(250kmを3日間でとは、猛烈な速さです。食事抜き?)
 信楽小川城(滋賀県甲賀市信楽町小川)は、多羅尾光俊の城です。ドラマでは赤飯と干しイチヂクで迎えていましたが、現地では、多羅尾光俊は、名物の干し柿と新茶を振る舞ってもてなし、村人は総出で赤飯を炊いてもてなしたとされています。「このとき赤飯を供せしに、君臣とも誠に飢にせまりし折なれば、箸をも待ず、御手づからめし上られしとぞ」(徳川家康主従は餓死寸前だったので、箸も取らずに手掴みで赤飯を口にした)という。
 愛宕大権現(ご神体は将軍地蔵)が祀られており、江戸幕府を開いた時に、江戸の守護神・愛宕大権現(東京都港区愛宕)として祀ったといいます(愛宕山の由来)。

「汽笛一聲新橋を、はや我汽車は離れたり。
 愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として♪」

 さすがに「中国大返し」は取り上げられたものの、「山崎合戦」は省略されました。明智光秀は伝承通り「明智藪」で殺されていました。

 さて、織田信長が亡くなった今、今後は羽柴秀吉との対決になります。
 楽しみです。

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