見出し画像

明智光秀生存説

1.明智光秀生存説


明智光秀は小栗栖で自害した。
しかし、世の中には、「自害したのは影武者だ」という人がおられる。
これは誤りであろう。
なぜなら、殉死した人達がいるからだ。
この人達が影武者の死を見て殉死したとは思えない。
もちろん、影武者だと思わせないために殉死したのかもしれないが。
ただ、殉死者リストの中の進士作左衛門は、生き延びて加賀藩士になっているわけであるし、明智光秀が殉死を禁止したので安田作兵衛国継は殉死したくてもできなかったという話もあり、本当に殉死者が複数いたのか疑問ではある。

もともと生存説は、
「甲冑を着ているのに、竹槍で刺されるはずがない」
という考えから興ったというが、逃げる時は甲冑を身に着けないのが常識で、実際、そうしたとある。

太田牛一の『太閤様軍記』では、深田に落ち、棒で殴り殺されたとする。実に惨めに描かれているが、明智光秀を刺した人物は、大金をもらって小栗栖の有名人になっている。

■天野信景『塩尻』
明智光秀を栗栖野にて突きし野武士は此の村の浪人・中村長兵衛といひしものとぞ云々。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991407/16


 ──明智光秀が小栗栖で死んだことはまず間違いない。
 ──もし、自害したのが影武者であったなら、それは誰か?

①磯野員昌:常の影武者。「本能寺の変」後、消息不明。帰農したという。
②可児才蔵:「山崎合戦」での影武者。生き延びている。
③溝尾庄兵衛:小来栖で明智光秀が切腹した時の介錯人。実は逆だった?
④柳川某(『明智旧稿実録』)
⑤荒木山城守行信:通説では「山崎合戦」で討死。

2.岐阜県山県市の伝承

(1)伝承

 山県市の荒深家に伝わる古文書の記述を要約すると次のようになる。

画像5

明智光秀公の墓(古文書を要約)
 この地、中洞古屋敷白山神社の一角にある高さ106cmの石塔と、高さ112cmの五輪の塔は、まさしく明智光秀公の墓なのです。
 天正10年(1582)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者荒木山城守行信でした。
 光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えんと荒木の「荒」と、恩義を深く感じての「深」で、自らも荒深小五郎と名乗り西洞寺の林間に隠宅を建て、乙寿丸と共に住んでいました。
 その後、光秀は雲水の姿となって諸国遍歴に出たのですが、18年後の慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが、途中根尾村の藪川の洪水で馬と共に押し流され、おぼれ死んだため死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬しました。
 以来この地には荒深姓が多く、今でも年2回の供養祭を行っています。
 光秀公の義弟、明智孫十郎直経の墓は、この地より国道に出て1㎞北へ行ったところにありますのでお帰りの祭、お立ち寄り下さい。

要約しすぎだろ。
あと、「山城守の子吉兵衛」は「明智光秀の子吉兵衛」の間違い。

さらに要約すれば、「荒木行信は、明智光秀の甲冑を着て山崎合戦で討死し、明智光秀は、百姓に化け、子・乙寿丸と共に生まれ故郷の山県市に隠れ住んだ」ということ。荒木行信が山崎合戦で討死したのは史実のようだが、それ以外は史実なのか、創作なのか。

画像1


 明智光秀の父は土岐四郎基頼、母は中洞の土豪・中洞源右衛門の娘・お佐多である。母は、妊娠すると、修験者の訓練の場であった行徳岩(上の写真)で「男子なら天下の将、女子なら美人を」と祈願したという。大永6年(1526年)8月15日に長男・土岐光秀が生まれた。土岐光秀が生まれると、母は旧宅跡(地名「古屋敷」)に建てられた白山神社に土岐光秀の学力向上と出世を祈り、達成されたので、現在は「学問と出世の神」として信仰されている。後に弟・土岐頼武が生まれた。

 土岐光秀が7歳の時、父・土岐基頼が亡くなると、遺言により、明智城主・明智光綱の嫡養子となったが、11歳の時、その明智光綱が病死した。こうして明智光秀は、明智家の家督をついで明智城主となったが、まだ若かったので、明智光綱の弟・明智光安が明智光秀の後見人となり、明智城代になった。

 明智城が斉藤義竜に落とされ、城代・明智光安が自害すると、明智光秀は、山岸光信の府内城(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬)、さらに天龍寺(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)に落ちた。そして、天龍寺の勝恵に6年間学び、40歳になった永禄8年(1565年)、朝倉義景に仕官し、その後、織田信長の家臣となると、スピード出世を果たした。

 明智光秀は、「本能寺の変」後の山崎合戦で破れ、勝竜寺城に入り、約束通り息子・乙寿丸を筒井順慶の養子にしようとするが、筒井順慶が約束を破ったので、勝竜寺城から逃げ、観音寺(滋賀県米原市朝日)で乙寿丸と共に自害しようとすると、家臣・荒木山城守行信が馳せ参じ「まだ死ぬ時ではない」と言って影武者を申し出て、明智光秀の具足を身に着けて戻っていき、山崎で討たれた。明智光秀と乙寿丸は、百姓姿になって大徳寺(京都府京都市北区紫野大徳寺町)へ逃げ込み、一族や家臣のその後を見届け、中洞又五郎、乙寿丸と共に生まれ故郷の中洞に帰り、「荒深小五郎」と名乗って西洞寺(住職は明智光秀の子・不立)がある山(一説に後に母が庵を建てた「庵の庭」。下の写真の場所)に隠れ住んだ。

画像2


 天正17年1月、乙寿丸は15歳になり、荒深吉兵衛光頼と名乗った。
 荒深小五郎(明智光秀)は、本願寺の下問長老と談合し、雲水姿で諸国の状況を調査して回り、慶長3年(1598年)春、江戸で徳川家康に会って報告すると、徳川家康は喜び、土岐家の再興と子孫を大名にすることを約束したという。(明智定政が土岐定政と名乗って土岐家を再興し、子孫は沼田藩主家となった。)

 荒深小五郎(明智光秀)は、慶長5年(1600年)8月、雑兵80人を率いて賀茂郡蜂屋で徳川家康に会い、大柿を献じた。同慶長5年9月、「関ケ原の戦い」に参陣しようと、一族郎党と共に出陣したが、藪川(根尾川)で馬もろとも濁流に押し流されて溺死したという。享年75。荒深吉兵衛光頼は泣き、水死体を中洞又五郎、久八郎、伊兵衛、作右衛門、柚吉らが引き上げ、中洞へ運び、埋めたのが桔梗塚(下の写真)だという。

画像3


 荒深家の宗主(荒深一族は乙寿丸=荒深吉兵衛光頼の子孫)は転居し、残された家が倉庫のようになっている。中には古文書、系図、日本に2枚しか無い明智光秀の肖像画の内の1枚などがあり、向いの荒深さんに頼めば鍵を開けてくださるが、見るだけで撮影禁止である。加藤先生(まだお若い。20代?)が研究しておられる。
 明智光秀の埋蔵金のありかが暗号で書かれている古文書があり、その暗号を解くと、桔梗塚(NHK大河ドラマ『春日局』の時に「光秀公園」として整備。墓への道を「桔梗通り」という)を指しているようなので、掘ってみたところ、割れた茶碗と川原石が出てきた。割れた茶碗は荒深小五郎(明智光秀)が生前に使用していたものだと思われる。遺骸は中洞又五郎が運んだとされてきたが、どうも流されて見つからなかったようで、運んできたのは遺骸の代わりの現地の川原石らしい。

画像4


 「故 惟任将軍日向守光秀」とある。明智光秀は正親町天皇に「天下を任せる」と言われ、征夷大将軍に任命されて3日後に(影武者が)亡くなったという。これを「三日天下」と呼ぶ。
 「山崎合戦」後、明智光秀が勝竜寺城へ逃げ込むと、羽柴秀吉は「丹波国に逃げられるよう北側の包囲を解いた」というが、内実は「天皇が認めた征夷大将軍を殺すと逆賊になるので、落ち武者狩りに殺させるため」だという。そして、明智光秀が思惑通りに殺されたと知ると、羽柴秀吉は、すぐに明智光秀が征夷大将軍になった事実をもみ消し、「自分が討った」と高らかに宣言したとされる。


ここから先は

3,359字

¥ 100

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。