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「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」3-2

 この、二色の炎の揺らめきを、光太は高校生になるまで知らなかった。
 扱いの難しさが問題となり、教育現場から消え、参考資料程度になってしまったから。要するに教科書に載っていなかったから、光太の知識にはならなかった。ミステリ小説でトリックに使われていなかったら、もしかしたら、名前を覚えることもなかったかもしれない。
 それを、充一は知っていた。
 教科書にはないもの、試験には必要のないもの、成績とは無縁のもの。それを「知る」ことの方がよほど知的なんじゃないか。光太がそう感じるようになったのは、充一と出会ってからのことだ。
「まあ、とにかく。久米がこの課題を終わらせない限り話は先に進まないわけだ」
「話って?」
「……松尾芭蕉の有名な一句『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』について、状況を想像し感想を述べよ、ね。それで久米は、蝉のふりして柱に張り付いてるわけだ。それで、蝉のつもりになった感想は浮かんだのか?」
「所詮、昆虫は昆虫だ。人とは脳の作りが違う。同じ思考を共有できるわけがなかったんだ」
 フフ、とやけに哀愁を漂わせ、充一は椅子へと戻ってくる。汗に落ちる青眼鏡を直す彼に、光太はたまらず肩をすくめた。
「万理子先生も。なんでこんなアホなこと止めなかったんですか」
「不可解で面白いでしょ?」
 定年の迫る教師は目尻のしわを深くするばかりだ。もしかして、と光太は少しだけ心臓がざわついた。
 もしかして万理子は、老獪なのではないか。
 孫悟空を相手にしても余裕たっぷりのお釈迦様のように、すべては彼女の掌の上の出来事なのかもしれない……。
「だいたいさ」
 黒い丸椅子に座るなり、充一は人差し指でプリントをつつき始めた。
「蝉の声なんてやかましいのに、しずかさって意味が分からない。状況が矛盾してる。まして岩がある状況だろう? 蝉の鳴き声は反響していっそう騒がしく感じてもおかしくないはずだ。まったく僕には理解できない」
「久米。今言ったそれを感想っていうんじゃねぇの?」
「え……」
 鱗が落ちた、と言わんばかりに充一は目を見開いた。左手で頬杖をつき、光太は右隣に座る彼に苦笑する。
「まあ、素直にそれ書いたら再提出食らうだろうけどな。感想なんて本当は、思ったことなんだっていいはずなのに。先生の顔色読んで作るのが国語になってるところはある気がするよなぁ」
「……百瀬がなんで優等生なのか、分かった気がする」
「つまんねぇだろ」
「ああ。でも、おかげで分かった。僕の脳内の日本語に欠陥があるわけじゃないんだな。国語という教育システムが僕に合わないんだ。それじゃあ仕方がない」
 仕方がないと繰り返しながら、充一はプリントを片付けようとする。光太は慌てて止めた。
「現文の単位落とす気かよ!」
「一科目くらいで留年には――」
「充一くん?」
 にこにこと万理子は笑っている。研ぎ澄まされた視線に、光太まで背筋が冷えた。充一はおどおどと視線をさまよわせ、課題プリントを丁寧に伸ばす。シャープペンシルを右手に握ると背筋を正した。
「百瀬クン。どうしたらいいでしょうか!」
「どうするって……オレらしい答えならいくらでも思い付くけど。いきなりお前がそんな解答出したらカンニングバレバレになるよな」
「試験じゃないんだからカンニングにはならないさ」
「つってもなぁ……」
 光太はプリントの活字に焦点を合わせた。松尾芭蕉。蝉の声。現代文担当教員がこの句を選んだのは、単純に夏だからだろう。
 この句が詠まれたのは山形県は立石寺。大きな岩や樹木に囲まれた山間の寺院で、「閑さ」を放っているのは寺院と、仏閣としての品性だ。蝉の声は対比として、そのしずけさを強調する。騒がしいはずの蝉の声さえ染み入るほどのしずけさ。せり出す岩肌の神秘性、緑の深さが秘めた「静」であり「清」――を充一が感じ取れるとは思えない。
 それよりは、よほど彼に相応しい逸話がこの句にはあった。
「なあ、久米。この蝉の種類ってなんだと思う?」
「……は?」
「蝉の種類だよ。まさか久米充一が蝉に種類があることも分からないなんてねぇだろ」
「当然だ。蝉の種類だろ。現在確認されているだけでも、その種類は日本だけでも三十種以上、世界規模になると約一六〇〇種だ」
「そういうことは即答できんのな」
「たしなみだからね。でも、こんな数文字の情報だけじゃ分からないよ。まさか芭蕉がアマゾンの奥地でこの句を思い付いたなんてことはないだろうけど。日本だって縦に長いからね。生態系は微妙に違ってくる」
「この句が詠まれたのは山形県の山寺。今から約三三〇年前の七月十三日あたりらしい」
「東北のその頃となると、可能性が高いのはニイニイゼミだね」
「正解。さっすが理系」
 にやりと光太は笑う。充一は不可解そうにしかめ面になった。
「かつて、この蝉の種類は何かってことで論争があったんだ。歌人の斎藤茂吉と文芸評論家の小宮豊隆の間でね。斎藤はアブラゼミだと主張したけれど、小宮はニイニイゼミだと指摘した。そこで斎藤が現地を調査してね、七月十三日頃にはまだアブラゼミは鳴いていない――ニイニイゼミだったと判明したってわけ。面白いだろ」
「ああ。フィールドワークを行ったうえで自分の過ちを認めた斎藤茂吉って人は素晴らしいと思う」
「国語っつーとさ、文中に答えがあるとか、そのくせ数学みたいに割り切れなくて理解できないとか、久米みたいなやつはそういうところが苦手なんだろうけど」
「………」
「理科と無縁ってわけでもないんじゃねぇかな。もっと古い書物から、彗星の動きが見つかったり、地震や津波のことが分かったり……それこそ、お前の好きなデータってやつはさ、言葉になって残ってるわけじゃん。現文も古典も、データの一形態だって考えれば、久米ならうまくやってけんじゃねぇかな」
 へら、と光太は軽い調子で笑う。充一はぱちぱちと瞬くと、青い眼鏡のブリッジにふれた。そうして、くすくすと笑った。
「百瀬は僕がこれまで出会った中で、一番の国語の先生だ」
「んな、大袈裟な」
 急に恥ずかしくなり、光太は頬杖をつく手を入れ替える。充一から顔を背け眉を寄せた。けれど、緩む口元はどうしようもできなかった。
「一番の国語の先生ねぇ」
 万理子も笑っている。充一は「物理は万理子先生ですよ!」と言いながら、やたらと音を響かせて文字を書きつけている。
(国語の先生ねぇ……)
 教壇に立つ自分を想像し、光太はこそばゆい気持ちになった。金田乃愛のように顔に出るタイプではないけれど。それだけで「いい先生」になれるわけではないだろう。
「……でも。光太くんの夢は法曹界だったかしら?」
「それは」
 光太は軽く唇を噛んだ。
「夢じゃありません。父が弁護士だから。オレしか跡継ぎいないんで」
「そう」
 万理子の吐息にアルコールランプの炎が揺れた。視界の隅に捉えながら、光太も息をこぼす。彼女の胸のうちは想像でしかないけれど、きっと「真面目ね」と呆れているのだろう。親の顔色なんて気にしなくてもいいんじゃない、と。
 そう言えるのは、ここが日本だからだ。
 親の跡を継ぐのが当たり前の国などいくらでもある。将来の夢を持てること自体が幸せだという国も。そもそも「夢」という言葉に「職業」を押し付けるのが奇妙なのだ。
 大きな家に住みたい、でもいい。宇宙旅行に行きたい、でもいい。