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「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」2-3

「あと。百瀬は昼休み、女子の会話を盗み聞きして――」
「してねぇよ!」
 光太は実験台を叩きつけた。
「友だちと弁当食ってたら、あっちが勝手に寄ってきたんだよ。自分で弁当作ってくるなんてすごいねーとかなんとかって」
「……先生。僕はどこから突っ込めばいいんでしょう?」
「いわゆる『リア充』というやつね」
 現代語は言い慣れないのだろう、万理子は少し噛んだような口調だった。
「爆破しちゃだめよ、充一くん」
「しませんけど。しませんけど! 弁当自作って何? 勉強だけじゃ飽き足らず料理までできるハイスペック男子ですって?」
「大したことねぇよ。うち父子家庭だから、料理は当番制ってだけで。今日は寝不足でぼけてたから、卵焼き焦がしたし。あとは生姜焼きだけの手抜き弁当だったし」
「先生。やっぱりニトログリセリンないですか!?」
 うわぁん、と大袈裟な泣きまねをして、充一は実験台に突っ伏した。まあまあ、と声だけで慰めて、万理子は首をかしげる。
「話を進めましょ。それで、乃愛のあ先生がどうかしたのかしら?」
 万理子は自分を下の名前で呼ばせるだけではなく、ほかの先生のことも名前で呼ぶようだ。ハイカラな名前ね、と万理子が評したことがある通りに、金田乃愛は二年前に採用されたばかりの新人教員だった。
「最初に言いましたけど、金田先生は五組の授業の時は眼鏡をしないらしいっす。でもこれ、今年だけのことじゃないみたいで、去年は一年三組の授業の時だけ眼鏡を外してたみたいなんですよね。まあ、あくまで女子らの記憶なんで、データとしての信憑性は保証しないっすけど」
「職員室ではどうなんですか?」
「そうねぇ……外してないわね。乃愛先生の輪郭の凹み具合からすると、相当の近視だと思うわ。眼鏡を外したら人の顔も区別がつかないくらいぼやけるでしょうね。もちろん、コンタクトレンズは使用しないものとする、よ」
「じゃあ、教室に見たくないものでもあるんじゃないですか?」
「見たくないもの……」
 充一の言葉に光太は軽く眉間を寄せた。取り出すだけで読む気になれずにいた文庫本のページを、意味もなくパラパラとめくる。親指の先にページのくすぐったさだけを感じながら、アルコールランプを見つめた。
 青とオレンジの揺らめきに誘われ、思考が穏やかになっていく気がした。これが、充一たちの言う「1/fゆらぎ」という効果だろうか。
「……万理子先生。去年の一年三組の名簿と、今年の二年五組の名簿ってあります?」
「ちょっと待ってくれる? 教員特権でサーバにアクセスするから」
 白衣のポケットから取り出したスマホを操作し、万理子は二枚、スクリーンショットを撮影した。そうして保存した名簿の写真が表示されたスマホを、万理子は光太へと差し出す。受け取った光太は、無言で充一へと回した。
「あ、ガラケー」
「……笑いたきゃ笑え」
「まあ、笑うけど。リア充くんならスマホの方が便利だろ。トークアプリとかさ。学校の外で語りたくなった時とか困るだろ?」
「お前はあんの? 外でも話したい時なんて」
「っつーか、学外がメインかな。あいにくと中学時代の科学仲間は優秀でさぁ、中央高校行っちゃったんだよね。だから今じゃトークアプリばっかり。今のクラスにはあいつほどユニークなのがいないから、かなり退屈してる」
 ぼやきながら充一はスマホを操作する。その手つきを見る限り、彼は二枚の写真を見比べているようだ。光太は伝え損ねていたけれど、何をやろうとしていたのか、充一は察してくれたらしい。
「でも。百瀬とならトークしてみてもいいかな。僕の知らないおススメの本とかいっぱい知ってそうだし」
「そんなの、放課後でもいいじゃん」
「ええ! 君はないの、読み終わった瞬間に誰かに伝えたくなるってこと!」
「あるけど……」
 例えば昨日のような、眠れない夜だとか。あの本を閉じた瞬間の高揚感を、リアルタイムに伝えることができたとしたら。
「でもさぁ、久米のおススメって科学系ばっかだろ、どうせ」
「何が悪い?」
「悪きゃないけど。オレにはハードル高いって」
「君なら大丈夫だと思うけどね……っと。一年と二年時のクラス名簿、両方に名前がある生徒は三名。井上作哉いのうえさくや工藤亜香里くどうあかり下川美鈴しもかわみすず。さて、百瀬光太。この三名と金田乃愛先生の間に、君はどんな理屈を付けるつもりだ?」
「その前に、久米に対してフェアであるために情報を追加すると。金田先生はすぐ顔に出るタイプなんだ。ちょっとミスしたりすると真っ赤になって」
「そうそう! そこがまあ若々しくって可愛いのよね、乃愛先生って。でも、本人は気にしてるみたいだから、そっと見守っていてあげてね」
 うふふ、と万理子は笑う。きっと彼女は、先生に対しても良い相談役なのだろう。授業も楽しいのではないか、そんな想像をしながら、光太はもてあそんでいた文庫本をパタンと閉じた。
「まあ、探偵のロジックなんて言うのもおこがましいくらいの想像だけどさ。金田先生はその三人のうちの誰かを直視できないんだよ。目が合っただけでも真っ赤になってしまうくらい、表情に出てしまうから」
「なんで?」
「なんでって、お前……」
 きょとんと瞬く充一に、光太は深くため息をついた。呆れたように、アルコールランプの炎も揺れる。
「手っ取り早い理屈って言ったら、恋愛関係なんだろ。でも、教師と生徒の間柄だから知られるのははばかられる。だから金田先生は、生徒の顔が分からないように眼鏡を外すんだ。そうすれば、目が合ったかどうかも分からないから」
「それはまた、随分と平和な事件だねぇ」
「下手にバレたら厄介な事件でもあるけどな」
 光太と充一は無言で万理子に視線を向けた。定年を控えた経験豊かな先輩教師は、ひっそりと、仏のように微笑むばかりだ。
「ねぇ、高校生くんたち。あなたたちは自分を子どもだと思う? それとも大人だと思っているかしら?」
「経済的に依存している以上、オレはまだまだ子どもっす」
「何をもって大人とするかによりますね。生物学的に生殖機能の発達で判断し、子孫を残すことが可能であることを『成体』とするなら、僕らはとっくに大人だ」
「そう、子どもであると同時に大人である君たち。観測方法によって姿を変えるあなたたちは、量子的な存在と言えるかもしれないわね」
「………」
「量子のエレガントなところはね、未来を予測させないところよ。決めつけられた未来なんて選ばないで、自由でいてね」
 うふふ、と笑みを深くして、万理子はアロマオイルのボトルを片付け始めた。結局、アルコールランプで焚くことのないままに、今日の放課後を終えるようだ。
「つまり、金田先生の未来に口出しするなってことですね」
「まあ、人の恋路を邪魔しても馬に蹴られますもんね」
「さあねぇ、わたしは何も示すつもりはないけれど。そう、強いて言うならあなたたち、明日百十円を忘れないこと!」
 びしっ、と万理子は人差し指を突き付ける。光太と充一はそっくりに叫んだ。
「先生のケチ!」