家事労働感謝の日
今日の天気を報じていたテレビに、赤とピンクのカーネーションが映る。朝食後。いつものように臙脂色のソファで、まったりとカフェオレを口に運びかけていた手を、桂月也は止めた。
「母の日って苦手なんだよな」
父の日もだけど、とポツリと付け加えて、マグカップに口を寄せる。それはもしかしたら、独り言だったのかもしれない。左隣に座る日下陽介がカフェオレをすする音よりも、ささやかに感じられた。
「そうですね」
聞き留めていた陽介は、ふっと短く息を吐く。両手で黒いマグカップを包んで、誰が決めたのかも分からない、母の日の贈り物ランキングを流すテレビを見つめた。
親と子にまつわるイベントを、月也が苦手としている理由は単純だ。
母は戸籍上のつながりしかなく、月也の存在を否定していた。婿養子だった父親は、不倫の果てに産ませた子どもという後ろめたさもあったのか、妻の味方ばかりしていた。
両親とも子どもを――月也を愛してなどいなかった。
それでどうして、母の日や父の日を、受け入れられるというのだろう?
「でしたら、僕に感謝する日にしてください」
「……は?」
再びカフェオレを飲もうとした手を止めて、月也は陽介を見る。意味が分からないと言いたげに、重い前髪に隠れがちな目を瞬かせた。
陽介は、まっすぐに月也を見返す。
マグカップを持たない右手の人差し指をピンと立て、にっこりと笑った。
「母の日のイメージって、たぶん、家事労働に対する感謝でしょう? 料理とか洗濯とか掃除とか、この家でそれを担っているのは僕じゃないですか。だからどうぞ、僕に感謝してください」
「つまり、家事労働感謝の日ってわけだ」
「はい!」
「さすが陽介」
あはは、と月也は笑う。陽介も一緒になって声を立て、ランキング一位を確かめることなくテレビを消した。
「つっても、カーネーションなんて欲しくねぇだろ」
「ですねぇ。かといって、家事を任せるのも不安ですし」
「いくら俺でも、洗濯物くらい干せるけど」
「とっくに干してます」
居間とつながる部屋の向こう、ベランダを陽介は指差す。
五月晴れの空の下、ひらひらと洗濯物が揺れている。あまりにさわやかな陽気に誘われて、シーツや枕カバーまで洗濯を終えていた。
「あー……」
「あ、だったら先輩。一つ叶えてほしいことがあるんですけど」
「おう」
「一緒にアーモンドチョコレートを食べたいです。先輩が淹れてくれた紅茶で」
「お前なぁ……」
深く息を吐き出し、月也はカフェオレを飲み干す。アーモンドチョコレートは月也が好きなお菓子だ。もう一つ、呆れた息をこぼして立ち上がった。
「じゃあ、紅茶の葉を買いに行こう。いつもの安物じゃなくて、専門店のやつ」
「そんな、気を遣わなくってもいいのに」
「気を遣ってこその家事労働感謝の日だろう?」
そうですね、と陽介もカフェオレを飲み干す。立ち上がる前に、月也の手が伸ばされた。
「コップくらい洗えるから」
「はい。お願いします」
黒いマグカップを受け取って、月也は大股でキッチンに向かう。その背中に微笑んで、陽介はぐっと両腕を伸ばした。
(こんな「母の日」もありかな)
月也が笑ってくれたのだから……きっと今日は、いい日になる。思う陽介の耳に、騒がしい声が聞こえた。
「陽介! 洗剤切れてる!」
「もう、今行きますから!」
ため息をついて、陽介は立ち上がった。
たぶん、今日はいい日になる。
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創作に集中するためにTwitterを辞めてしまいました。おかげで宣伝できるSNSがありませんが、たくさんの読者様に届いていますように……。