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「アルコールランプが消えるまで〜理系くんと文系くんの青春ミステリー〜」0.5

     第0・5話

 校長の話があまりにくどく、そもそも遅くまでベルの不等式に取り組んでいた久米充一は、睡魔に逆らうことを諦めていた。新一年生ではあったけれど、高校生ともなれば、校長も期待などしていないだろう。一列向こう、一年三組の中にも船を漕ぐうしろ姿が――そのあたりで、充一の意識は途切れた。
「新入生挨拶。代表、一年一組百瀬光太」
 充一が目を覚ましたのはその時だ。百瀬光太。覚えのある名前だったけれど、身近には感じない。まるで、歴代のノーベル賞受賞科学者の名前を聞いたような、うっすらとした憧れを覚えながら、充一は壇上を見上げた。
 紺色のブレザーに深緑色のネクタイ――充一と同じ、真新しい制服の男子がいる。緊張しているのか硬い無表情の彼は、手にしていた白い紙を開いた。
「新入生挨拶」
 ハスキーな声で、淡々と、百瀬光太は読み上げる。当たり障りのない、おそらく学校側が用意した原稿を。あまりの退屈さに充一はあくびをもらし、もう一度、眠りの世界に向かおうと目を閉じた。
 百瀬光太。
 瞼の裏に文字が浮かんだ。明朝体に近いけれど、どこか癖のある活字で。それは充一が愛読しているミステリ雑誌特有のフォントだ。
 ああ、と充一は思考の中で頷いた。
 去年の春号。読者を対象にした短編賞で、大賞を受賞していた作品の作者名と同じだったのだ。いつもなら覚えていないその名前を記憶に残していたのは、同じ県の住人らしいことと、作品そのものに違和感を覚えたためだった。
 百瀬光太の短編『探偵のロジック』は、小説というよりエッセイだった。
『例えば車窓から、青い空へと吸い込まれていく、真っ赤な風船が見えた時。そこになんらかの事件性はあるだろうか?』
 そんな風に始まった短編は列車内の人物観察へと移行し、最終的には、子どもを事故により失った母親が企てた復讐劇を阻止する――と見せかけて、主人公が目的の駅に着くまでの間に作り上げた、単なる妄想だったというオチだ。けれど、駅前ロータリーには不穏な空気が漂い、妄想が真相だったかもしれないと錯覚させる……。
 普段から作者は、そういう想像をしているのだろう。充一はそう感じ取った。それはたぶん、似ていたからだ。充一は「探偵のロジック」で世界を見てはいないけれど、「観察者のロジック」で風景を見る癖があった。
 例えば車窓から、風船が見えたなら――
 列車の速度、風船の上昇速度、風向き、風速……そういったものを考慮して、風船が放たれた地点を導き出したいと考える。あるいは、風船の内部構造、ヘリウムガス、気圧、気象予報なんかへと思考を巡らせるかもしれない。
(本人かな?)
 形ばかりの拍手に、充一は目を開けた。降壇する百瀬光太の横顔を見つめる。もし彼が探偵のロジックを持っているのなら、一度くらいは話をしてみたかった。
 とはいえ、一組と五組では接点などなく。
 一年生のうちに言葉を交わすことはなかった。

 転機は二年生の初夏。
 理系コースになれば一緒に量子論を語り合える友人もできるだろう……そんな希望を抱き続けるのは無意味だと、誰にも誘われない放課後に悟った日のことだ。充一は、今はもう廃部になったという科学部の面影を求めて、物理実験室を訪れた。
 そこに、山内万理子を見つけた。
 アルコールランプの炎とともに。
「思考実験がちょうどいいかもしれないわね。1/fゆらぎは、気持ちを穏やかにしてくれるとも言うし。楽しい閃きが浮かぶかもしれないわ」
 それは、三度目の放課後だったと、充一は記憶している。ただアルコールランプを眺めるだけの時間に、万理子はため息をついたのだ。
「思考実験ですか……」
 万理子と向かい合わせに座り、頬杖をついていた充一は、軽く目を閉じた。有名どころの思考実験といえば、「シュレディンガーの猫」だろうか。
「猫はダメよ」
 ふふふ、と万理子は笑った。
「猫はダメって……どうして分かったんですか? 僕が、量子力学の解釈問題を考えてるって」
「そりゃあねぇ、わたしは充一くんの三倍は生きていて、うんと長く科学の徒をやっているもの。思考実験といえばアレってすぐに思うわよ」
「猫がダメなんじゃあ……」
 充一は頬杖をほどくと腕を組んだ。猫がダメなら何がいいだろうか。そう考えたせいだろう、言葉が独り歩きする。
 猫がダメなら、人間を――
 例えば『探偵のロジック』にあったように。同じ車両に乗り合わせた人を観察し、その言動から、何かを導き出してみるのは思考実験と言えるだろうか? 思い付いたことを、充一は素直に万理子に伝えた。
 万理子は顎に手を添えると、記憶を手繰り寄せるように視線をさまよわせた。
「人間なら、そうね、少し気になる子がいるの」
「先生が気になるって、生徒指導案件とかじゃないですよね」
「んー?」
「え。さすがにそういうのは、僕には荷が重いんですけど。そういう話は職員室内で完結しといてくださいよ。僕はただ、科学話を楽しみたいだけなんで!」
「まあ、ほら、若い者同士通じるものがあるかもしれないじゃない? あのね、その子図書委員なんだけど」
「聞きたくないですぅ!」
 両手で耳をふさぎ、充一はノイズ代わりに「あー」と声を出し続ける。それでも耳に入ってくる、万理子の教職らしい張りのある澄んだ声が、
「聞いてくれないんじゃ、アルコールランプもおしまいにするわよ」
「………」
 充一は唇を尖らせて、渋々と手をおろした。万理子はにっこりと、年甲斐もなく無邪気に笑う。いや、年の功の邪気に満ちているようにも、充一には見えた。
「わたしもね、時々図書室を利用するのだけど。その子、そうそう、確か百瀬光太という名前だったかしらね」
「百瀬光太」
「あら、知り合い?」
 充一は左右に首を振った。知っているわけではなかった。彼が『探偵のロジック』の作者であるかどうかも、まだ確かめてはいなかった。
「……名前だけ知ってただけです。新入生代表だったから」
「ああ、そうだったわね。その、光太くんなんだけど。いっつもね、返却カウンターにいるのよ。おかしいと思わない?」
「どこがですか」
「だから、いつ行っても返却カウンター担当なの。貸出だったり、ビニールのカバーかけだったり、バーコード登録だったり、ほかにも仕事はあるでしょう? それなのに、わたしが行く時はいつでも返却カウンターなの」
「それって、万理子先生のデータが不足してるってだけじゃないですか? 先生、毎日通ってるわけじゃないですよね」
 んー、と万理子は頬に手を添えて首をかしげた。「やっぱりそうかしら」と眉間のしわを深くする。つられて、充一も眉を寄せた。
「まあ、それなら僕も行ってみます、図書室。まだ利用したことないんで」
「まだって……確かに充一くんレベルの科学書はないけど。せっかく高校生なんだから、自分の趣味以外にも触れあっておいた方が楽しいと思うわよ。大学で専門に進んだら、それこそ同じジャンルの人ばかりになるんだし。違う視点に出会えるのって、たぶん、今が最後のチャンスだと思うのよね」
「違う視点……」
 充一はアルコールランプの炎を見つめた。
 オレンジから青のグラデーション。色相環的にほぼ反対の位置関係、補色に近い二色が一つの炎となって揺らめいているのは、とても印象的だった。
(百瀬光太か……)
 きっと、彼は自分とは違う。もし本当に、彼が「探偵のロジック」を持っているのだとしたら――
「万理子先生。百瀬光太の笑い方って詐欺師並みに胡散臭いですね!」
 観察し、考察した事実から、久米充一は決意する。
 百瀬光太を図書室から引っ張り出そう。そうして、放課後の語らいに巻き込むのだ。
 補色関係の炎として。