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「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」2-2

(今日も熱帯夜かな……)
 活字の上で、光太は視線を泳がせる。集中できなかった。昨日の夜も、あまりにじっとりとした暑さに寝付くことができなくて。寝ることを諦めたのだ。
 それが、充血の遠因だ。
 直結する本当の理由には、充一も万理子も気付けないだろう。会話の中にも、物理実験室で二人と合流してからの光太の動きや荷物にも、情報は表れていないのだから。
 そういう意味では、光太の眼鏡に関する不可解は、アンフェアだ。ミステリーのお約束事たるノックスの十戒に反している。
 でも、日常はそんなものなのだ。探偵のロジックで空想するような事件など、そうそう起こりはしない。
 ロジックなんかで解答が導かれるほど、単純な世界になどなってはいない。
(本で泣いたの、いつぶりだろ)
 眼鏡を外し、光太は腫れぼったい目を押さえた。エピローグですべてをひっくり返してくれた昨晩の物語は、プロローグに別の解釈を与えた。その意味に気付いたとき、光太は泣かずにはいられなかったのだ。
 良作だった。遠いあの日なら、美乃梨と一緒に語り合っただろう。
 今は……光太は眼鏡越しに青い眼鏡を見やり、軽く眉を寄せた。彼、久米充一は、一体「何」だろうか。
 同学年の他人、というのは無責任だろう。こうして一緒の放課後を過ごしているのだから。では、部活動仲間かといえばそれも違っている。光太はまだ、エア科学部の入部を了承していない。
 ただなんとなく、ここにいる。
「何?」
 視線がぶつかり、充一は慣れた様子で青眼鏡のブリッジを押し上げた。
「君も、AI問題について語り合いたいの?」
「いんや。ただ久米は、いつも楽しそうだなぁって思ってただけ」
「馬鹿にしてる?」
「尊敬してる」
「(笑)を感じる口調だけど……まあいいや。AIの排熱問題で思い出したんだけど。暑さに弱いなら、薄荷スプレーでも作ってみるといいよ」
「薄荷スプレー?」
「ああ、それなら今作れると思うわ。ペパーミントオイルあるし。エタノールと精製水も確かあったと思うから」
 ひら、と白衣の裾をひらめかせて、万理子は物理準備室へと向かう。その背中を見送ってから、光太は充一へと首をかしげた。
「薄荷あるいはペパーミントくらい分かるね?」
「ああ」
「薄荷スプレーは、薄荷の清涼感を得るためのスプレーだよ。空間自体の温度を下げるほどの効果はないけれど、香りや、エタノールの気化熱なんかで、気持ち的にいくらか涼しくなるんだ。枕なんかにスプレーすると、熱帯夜も少しは過ごしやすくなるかもね」
「お前、充血の理由分かってたのか?」
「ん?」
 万理子のアロマオイルコレクションから、勝手にペパーミントのボトルをつまみ上げていた充一は、とぼけた顔で瞬いた。光太は「いや」と肩をすくめ左右に首を振った。
 充一は不思議そうに首をかしげ、別のボトルもつかんだ。
「ラベンダーもあるね。リラックス系のハーブとしてメジャーだけど、これも混ぜる?」
「いや、ラベンダーは」
 宇山美乃梨を思い出すから、という言葉を飲み込んで、光太はへらっと笑った。
「実験室でそんなもん出したら、時が巻き戻るかもしれねぇから」
「有名どころのネタだね。百瀬は時を巻き戻せたらどうする?」
「『探偵のロジック』を書かないかな」
「あー」
 言葉と一緒に視線をさまよわせ、充一はラベンダーのボトルを置いた。ペパーミントオイルも横に並べ椅子に戻ると、アルコールランプの揺らめきに眉を寄せた。
「でも。君があの作品を書かなかったら、僕が君を知ることもなかったんだろうな。それは少し退屈だ」
「そうか? オレなんか知らなくても、久米なら楽しく生きてそうなもんだけどな」
「でも。それじゃあ世界は広がらない。新しい発見もないじゃないか」
「………」
 光太は眼鏡を直すふりをしつつ表情を隠した。軽くうつむき、奥歯を噛んだ。
(オレは……)
 心のどこかで、充一のことを下に見ていたことに気付いてしまった。
 それは、物理以外の成績が悪いから。観察者と自称しておきながら、ふわふわと思考が定まらず、すぐに脱線してしまうから。だから、頭の良さという点において自分よりも劣っていると、意識せずに思っていたのだ。
 約六百三十人いる西高生の中で、図書室の光太に疑念を抱いたのは充一だけだったというのに。彼の観察のおかげで、光太は図書室から抜け出せたというのに……。
「ごめん。久米」
 思わず光太が呟けば。充一は、シュールストレミングでも開けた時のような、とてつもないしかめっ面になった。
「今度はどんな不可解だよ!」
「ああ、いや、まあ……」
「ちょっと二人とも大変よ! エタノールに使用制限かかってるの。これじゃあ勝手にアロマスプレー作れないわ!」
 答えをはぐらかしかった光太にはジャストのタイミングで、万理子が実験室に飛び込んでくる。乱された空気に、アルコールランプの炎も左右に揺らめいた。
「そうっすか。まあ、税金で置かれてるもんですし、仕方ないっすよ」
「ああ、そうだったわねぇ……ごめんねぇ、光太くん。家で作ってくるわ。明日まで待っててもらえるかしら」
「それなら無理に――」
「万理子先生、僕はシトラスミントがいいです!」
 まっすぐに右手で挙手し充一はニカニカと笑う。その目はちらりと光太を向くと、不器用にウインクしてみせた。遠慮するなよ、とでも言いたいのだろう。
「じゃあオレも同じやつにしてもらってもいいっすか?」
「はいはい」
 万理子は目尻のしわを深くして、孫でも相手にするように頷いた。
「容器代百十円は徴収しますからね」
「そんな!」
「高校生の百十円は意外とでかいっすよ!」
「あのねぇ、純正のアロマオイルっていいお値段するのよ? それを容器代だけにしてあげるなんて慈悲深いんだからね」
 光太と充一はそっくりに口を尖らせる。万理子はくすくすと笑うと、先ほどまで座っていた丸椅子に腰を落ち着けた。
「さて、と。光太くんは何か、不可解なことを見つけたかしら?」
「そうっすねぇ……」
 光太はふらふらと視線をさまよわせる。放課後だというのにまだ眩しい空、天井の暗いままの蛍光管、湿度に滑るリノリウムの廊下、そして――アルコールランプの青とオレンジの炎で目を止めた。
「じゃあ、眼鏡つながりで。昼休みなんですけど、うちのクラスの女子と五組の女子が変な話をしてたんですよね」
 不規則に揺れる炎に向けて、光太は呟いた。ふっと脳裏に「百物語」という単語が浮かんだ。これから語る不可解は、怪談などではないけれど。じめっとした夏の日に、揺らめく炎を中心に物語る。それはとても、儀式めいていた。
「古典の金田かねだ先生なんですけど。五組で授業する時だけ眼鏡をしていないらしいっす」
「データ不足だね」
「そうね。本当に二年五組でだけのことなのか、ほかのクラスの状況が分からない以上、不可解と決め付けるのは早計だわ」