見出し画像

「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」2.5

     第2・5話

 偶然というには、あまりにも好ましくないタイミングだった。かといって、数奇な運命というほど大袈裟でもないタイミングで、光太は美乃梨と鉢合わせた。
 それは、日が沈んだばかりの駅前でのこと。
 光太はちょうど、携帯電話ショップから出てきたところだった。
「………」
 光太も美乃梨も足を止めなければよかったのだろう。けれど互いに、相手を認めた瞬間には足が動かなくなった。そうして止まった時を動かしたのは、ショップから出ようとした客だった。
「……あの電話以来ね」
「ああ」
 並んで歩きたかったわけでもない。自然とそうなってしまったのは、昔の癖かもしれない。方向が同じというどうしようもない理由もあった。
「それ、スマホ?」
「まあ」
「ふぅん。百瀬くんもとうとうスマホデビューするのね。あたしが誘ってもちっともなびかなかったのに」
 非難するように首をかしげる美乃梨の髪は、バッサリと短くなっていた。それでも変わらずに、ラベンダーの香りがした。
 光太はスマホが入った紙袋の紐を、きつく握りしめた。
「学校では『百瀬光太』を演じているに過ぎないからだっけ。舞台を下りたあとまで演じ続けるのは面倒だ、なんて一匹狼気取ってた光太のことは、ちょっとだけカッコいいと思ってたんだよね」
 とても本心とは思えない口調で、美乃梨はローファの踵を鳴らした。
「オレは、オレと同じように自分を演じてる奴がいると思ってほっとしてたんだ」
「それで惚れたの?」
「……知ってたんだ」
 バツの悪さに光太は自身の爪先を睨んだ。ありふれた、日本のスポーツメーカーのスニーカーだ。優等生だからといってカッチリしているわけじゃない――と思わせるために革靴は避けた。早くからコンタクトレンズにしたのも同じ理由だ。
 生真面目で堅苦しい、頭の良い奴とは思われたくなかった。できれば、勉強はできるくせにノリだけの、付き合いやすいお調子者でありたかった。
 けれど今。革靴に青い眼鏡の「彼」を見ても、ちっとも優等生という印象は受けない。変に演じようとせずに、「革靴って大人っぽくてカッコいいんじゃね?」と思っていた自由な心を尊重するべきだったのだ。
「でも……美乃梨はオレとは違って、演じていることが楽しそうだった。それが羨ましくて、どうしてなんだろうって気になって――」
「小説があったから」
「………」
「空想の世界だけは誰の顔色も窺わなくてよかったから。まあ、あの世界は、自分の手で壊しちゃったけどね」
 美乃梨は右手を持ち上げると、くしゃり、と握りしめた。光太の目には見えない何かを砕いたらしい右手は、ゆっくりと開かれる。パラパラと散っていったのは、湿度の高い風と、通り過ぎる車のテールランプの赤色だった。
「……ごめん」
「ムカつく」
 並んでいた歩調がずれる。少しだけ早歩きになった美乃梨は、後ろ姿で語った。
「光太はずっとあたしの味方だと思ってたのに。あたしだって同じだったのに。同じように仮面をかぶってる光太がいたから、あたしはあたしでいられた。それなのに……どうして変わっちゃったのよ!」
「世界が広がったから」
 光太はまっすぐに、美乃梨の短くなった髪の先を見つめた。
「ある人に言われたんだ。違うから世界が広がる、新しい発見があるって……同調することをあいつは望んじゃいない。自分とは違う考え方こそ喜んで受け入れる。あいつのおかげで、オレは自分がいかに馬鹿か思い知ったよ。斜に構えて演じる必要なんてなかったんだ。美乃梨だって――」
「あたしは!」
 光太の言葉は鋭く遮られる。その、美乃梨の肩は小さく震えていた。
「あたしはそんな人知らないから。今の百瀬光太も、もう、知らない人だから。だから……さようなら!」
 美乃梨は走り出す。交差点の向こうへ。
 まだ青い歩行者信号は、光太に「追いかけろ!」と叫んでいるようだった。けれど光太は、横断歩道を渡ることなく足を止めた。
 不満そうに青信号が点滅を始める。
「さようなら」
 呟いて、光太はそっと瞼を伏せた。ため息を一つこぼすと、右に向かって歩き出す。ただ、彼女と同じ道を歩きたくない、その思いだけで遠回りを選んだ。
(さようなら、か……)
 夜になっても残る暑さに、気怠そうな人ばかりの歩道を進みながら、そういえば、と光太は思い出した。美乃梨の不正を咎めた時は、馬鹿だと非難しただけで会話は終わった。なんとなくそれで、彼女とは決別したと思っていたけれど。
 今、本当に終わったのだ。
 光太はスマホの重みを感じながら、空へと視線を向けた。教科書に載っていた、夏の大三角を見つける。はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガ。名前も覚えているけれど、どの星がどれなのかまでは分からなかった。
「さよなら……なんだっけ」
 幼稚園に通っていた頃。母親が読んでくれた絵本の中に、「さよなら」の文字が入ったタイトルがあった気がした。
 内容は、すっかり忘れてしまっている。
 母の声も。顔も。
 けれど、彼女の言葉は光太の中に染み付いていた。
 ――光太。嫌われたくないならね、お友だちに合わせてあげるのがいいわよ。にこにこ笑って一緒にいてあげれば、みんなが光太を好きになってくれるわ。
 そうしたつもりでいた。
 でも、何かが違っていた。
「……嘘つきババァ!」
 通りすがりのおばさんが、何事かと光太を睨む。光太は、自己最高記録のスピードで逃げ出した。
 カタカタ、とケータイショップの紙袋の中で、新しいスマホの箱が鳴った。
(そうだよ。明日にはアイツに会えるじゃん)
 にこにこ笑っていようが、しかめ面をしていようが、好奇心のままに寄ってくるアイツに。合わせる必要のない存在を思うと、光太の心の中は明るくなった。
 アルコールランプの炎に照らされたように。