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「アルコールランプが消えるまで〜理系くんと文系くんの青春ミステリー〜」1-4

 光太の作品が載った雑誌を手に、宇山美乃梨は笑ったのだ。「おめでとう」と。フィギュアのように形ばかりで、感情のない笑顔で。
「今まで書いたこともないくせに凄いね、光太は。なんでもできちゃうんだ。あたしってやっぱり馬鹿なんだな」
 それ以来、美乃梨は書かなくなった。
 それ以来、図書室の本を傷つけるようになった。
 美乃梨と同じ高校に進学し、図書委員になったのは、彼女の「犯行」を隠すためだ。エア科学部に言われるまでもなく、光太は美乃梨がしていることに気付いていた。
 ページをスキャンし、データを無償でばらまく――
 それは彼女なりの、小説との決別で。
 百瀬光太に対する復讐だった。
 だから、通話口の向こうへと告げる別れの言葉は、ひどくシンプルで済んだ。
「美乃梨は馬鹿だよ」

 放課後。アルコールランプの番人をしているのは山内万理子ではなかった。表紙からして理科を押し出す、六角形と、何個かのボールが合体したイラストの本を、青眼鏡の理系少年はめくっていた。
「お前のフルネームってなんていうの?」
 実験台を挟んだ向かいに座り、光太は光太で、デイパックからお気に入りのミステリ作家の本を取り出した。充一はすぐに答えず、数ページ進んでから口を開く。
「久米充一」
「久米はさ、本当は分かってたんだろ。宇山――図書室の不可解な女子生徒が何をしていたのか。オレが、何をしていたのか」
「……僕は探偵じゃなく、観察者だから、考察しかしないけれど」
「で?」
「ページが広がるような傷み方をもたらす力学は、簡単に想像できる。それを広範囲のページに対して行う理由も、推測はできる。でも、そのことに気付いていながら隠蔽する人の気持ちは分からない。だから、万理子先生と相談して、今回のような対応策を考えたんだ」
「……好きだったんだ」
「そうか」
「だから、認められたかった。同じジャンルで良いところを見せたら、気を引けるかなって……中坊らしい浅はかさだった」
「そうか」
 静かに頷き、充一は科学新書を閉じた。アルコールランプの炎を気にするように机の隅に置き、頬杖をつく。眼鏡のレンズに青とオレンジの炎を写し込んだ。
「百瀬は知らないだろう、アルコールランプの消し方」
「まあ、こうして燃えてるのも、リアルでは昨日初めて見たくらいだからな」
 光太も本を置く。
「なんで、教育現場から消えてるんだ?」
「扱いが面倒だからだよ。気化したアルコール燃料が溜まっていると爆発の恐れがあるから、常に半分以上に満たしておかなければならない。いちいち残量に気を配らなければならない手間の上に、このサイズだ。ちょっとぶつかっただけで落下する、炎が分かりづらくて引火する……教育という場面においては、とにかく面倒な代物でしかなかった。だから今じゃ、卓上コンロってわけ。理科教育的にはアルコールランプの使い方は重要ではなく、熱による反応を観察することが目的だったから」
「ふぅん」
「ひどい話だよね。アルコールランプって、こんなに可愛いのに」
「……は?」
「は、って。そう思うだろ。ころんとしたフォルムとかさ、ガスには出せない炎の色合いとかさ、これを可愛いと言わないでなんて言うんだよ。もはや萌えだよ!」
 光太はぱちぱちと瞬くと、腹を抱えて笑った。まったく理解できない充一の思考が、失恋に傷む心にはちょうどいい慰めだった。
「さては君、三角フラスコの良さも分からないタイプだね?」
「そもそもフラスコってなんだっけ? ビーカーはあれだろ、コーヒー飲むやつ」
「馬鹿か、百瀬光太」
「馬鹿だよ、久米充一」
 いっそう大きな声で、光太は笑う。それは、ひどく久しぶりのことだった。今ならきっと、充一も胡散臭い笑顔とは言わないだろう。
 その証拠に、青い眼鏡を押さえて充一も笑っている。
「はいはい、お待たせ! 青春にはシュワッと炭酸で決まりよね。万理子おばあちゃんのおごりよ」
 実験台の上、アルコールランプを挟んで、二本のペットボトルが置かれる。万理子は自身の手に残った一本を開けると、高く掲げた。
「エア科学部発足を記念して、カンパーイ!」
「ちょっと先生、まだ開けてません!」
「つーかオレ、入部するなんて言ってないんすけど!」
「いいじゃないの。アルコールランプが消えるまでの間、わたしたちで校内の不可解を解明していきましょうね」
 うふふ、と笑って万理子はペットボトルに口を付ける。腰に手を当て、ぐびぐびと飲み始めた万理子は、激しくむせてうずくまった。
 光太と充一は、同時に席を立つ。そして、同時に叫ぶのだ。
「歳を考えてください!」