「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」2-1
第2話
東北地方、青森県太平洋岸の高等学校、物理実験室にはまだエアコンが設置されていなかった。近年の猛暑は青森だろうが構わずに襲い掛かってくるというのに、県の財政のせいなのか、「北東北なら夏でも涼しい」という思い込みでも働いているのか。
百瀬光太は、思い込みの方に一票を投じたい気分だった。それは、数年前に亡くなった祖母の考え方のせいだ。昔ながらの祖母は、光太の家になかなかエアコンを導入させなかった。その名残、というよりは、外壁工事や室外機の設置場所問題が少し厄介で、光太の部屋には今もエアコンがない。いずれ、寝ている間にミイラになるかもしれない。
さすがに、学校はミイラを出すわけにはいかないのだろう。一般教室には、心ばかりに扇風機が導入されたけれど。入試対策の授業ばかりで実験を行わない、ほぼ使用されない物理実験室には、扇風機すらなかった。
「おい、久米」
青とオレンジ色から成る炎を睨みつけ、光太は口をへの字に曲げる。
「熱帯夜とかさ、もううんざりなんだけど……物理の力とやらで涼しくしたりはできねぇの?」
「そうだな……」
久米充一は、名前以外はまっさらなままの課題プリントから目を上げた。右の手で軸の細いシャープペンシルをくるくると回しながら、全開になった窓の向こうを見つめる。
「アルコールランプの燃料、エタノール&メチルアルコールをシャツにでも染み込ませれば、揮発の際に体表の熱を奪ってくれるだろうね。水のようにじめっとすることなく、さっぱりとした清涼感を与えてくれるだろうけど」
「エタノールはともかく。オレ、中学の先生に『目散るアルコール』って習ったけど?」
「そう。メチルアルコールことメタノールは、視覚障害を及ぼす危険性があるんだよね。皮膚に付着した場合は直ちに洗い流すこと、って取り扱い表記あるし。万が一引火したら涼しいどころか火達磨だ。一生、暑いと文句も言えなくなるかもね」
ケラケラ、と充一は心のない笑い声を漏らす。光太は深く息を吐き出すと、眉間を揉もうとした。あまり馴染みのない、硬いものに邪魔される。
眼鏡のブリッジだ。充一のように自己主張の強い青い眼鏡とは違い、光太の眼鏡はシンプルなデザインの細くて赤いフレームだ。今日は訳あって、コンタクトレズではなく眼鏡を着用していた。
「まあ、冗談はさておき」
「冗談かよ」
「人の脳なんて限られた計算容量しかないんだから。暑いなんてことを考えていられないくらい別のことに、思考を割いてしまえばいいんじゃないかな」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、か」
「ん、まあ、そいうことだよ」
頷いた充一は曖昧な笑みを浮かべている。心頭滅却すれば火もまた涼し、という有名な言葉を知らないようだ。光太は呆れを込めて息を吐くと、汗に落ちる眼鏡を押し上げた。
「お前よく、こんなんで生活できるな」
「ああ、眼鏡? 慣れだよ慣れ。僕レベルになると身体と一体化しているからね、かけたまま顔を洗ってしまうくらいさ」
「それ、間抜けなだけだろ」
「……職人は、道具の先にまで神経が通っていると感じるという。では、『私』と『世界』の境界はどこにあるのだろうか。眼鏡をかけている時の僕と、眼鏡を外している時の僕とでは、そもそも世界の範囲が」
「光太くんは、今日はどうして眼鏡なのかしら?」
一つ隣の実験台から、山内万理子は充一を遮った。机の上には、親指ほどの大きさのボトルが五本ほど並んでいる。実験もできずにアルコールランプを燃やしているのはもったいないからと、アロマオイルでも焚こうと考えているのだ。
あの日、ハーブの本を借りたのは、偶然ではなかったのだ。勉強熱心な先生は、ボトルに書かれた効能だけでは飽き足らず、知識を深めているらしい。
「ああ、それは」
「ストップ! せっかくの不可解だから、それ、充一くんへの課題にしましょう」
「えー? 僕、探偵じゃなくて観察者なんですけど」
「じゃあ、考察してください」
はい、スタート! と万理子は手を打ち鳴らす。その顔が暑さを感じていないように見えるのは、何故だろうか。これが「歳」というものなのだろうか。ぼんやり考える光太に、熱い視線が注がれる。
「……気分悪いんだけど」
「観察中だから仕方ない。んー、ひどい充血だね。それじゃあコンタクトなんてする前から目に違和感があっただろう」
「まあな」
「先生、分かりました。今日、百瀬光太が眼鏡なのは、充血がひどかったからです。コンタクトなんてしてらんねぇよ、ってわけで眼鏡なんですよ。考察終了」
「そうね」
万理子は深く頷くと、夏だというのに羽織っている長袖の白衣の腕を組んだ。その、ほうれい線を、光太はじっと見つめる。万理子は果たして、充一が出した答えが、答えの始まりに過ぎないことを指摘するだろうか?
「でも、充一くん。充血がどうして起きたのかについての説明は必要じゃないかしら」
「そうですね。充血は……目の疲労が回復しなかった場合に起こります。回復を促すための酸素や養分を多く運ぶために、普段は目立たない白目の毛細血管が拡張するんです。そのため、赤く腫れて見えるんですよね」
「エクセレント!」
にっこりと、万理子は親指を立てた。充一も晴れやかな笑顔で、親指を立てた右手を掲げる。その前まで手にあったシャープペンシルが、机の縁から落下した。
「全然、エクセレントじゃないっすから!」
光太は思わず叫んだ。
きょとん、と充一と万理子は首をかしげた。
「あのですねぇ……こういう場合、充血の仕組みは重要じゃないっすから。『どうして充血したのか?』に答えるには、充血するほどの眼精疲労をもたらした要因、例えば寝不足になった原因は何かを考えないと……」
「でも。充血につながる要因についてのデータは、どこにも提示されてないじゃないか」
「そうよね。光太くん、さほど眠そうにも見えないし」
「そりゃあ授業中……いえ、なんでもないっす万理子先生。とにかくオレの充血は、寝不足によってもたらされました。では、なんで寝不足になったんでしょうか?」
「ネットサーフィンに夢中だったからかしら」
「違います」
「ソシャゲにはまってた?」
「ガラケーです」
光太はわざわざ尻ポケットから取り出し、パカパカと携帯電話を開いたり閉じたりしてみせる。何か言いたそうに眉間を寄せた充一は、軽く肩をすくめた。
「なんだよ。スマホの方が偉いわけじゃないだろ」
「そうだけど。やっぱさ、未来感はスマホの方があると思うんだよねぇ。ほんっと、ジョブズって偉大!」
「そうよねぇ。この十年におけるITの進歩には目覚ましいものがあるわよね。ほんの少し前なんて、AIに仕事が奪われるかもなんて心配、意識の片隅にも浮かばなかったのにねぇ」
「万理子先生はどう考えます? AI労働力問題」
「そうねぇ。やっぱりまだ、現実的じゃない気がするのよね、わたしは」
充一と万理子は、初対面の日から変わらず脱線していく。そうして次々に、気になった話題へと思考を広げていくことが「観察者のロジック」なのかもしれない。
けれど、光太にはそう思えなかった。観察という行為は、一つの物事にじっくりと向き合うことで。充一だって始めは、光太のことを凝視していたのだ。だからこれは単純に、充一と万理子の性格によるものなのだろう。
そのせいで、なかなか真相に辿り着けない。
光太は、まあいいか、と足元に置いたデイパックから文庫本を取り出した。窓から吹き込んだ風の暑さにため息をつき、ページをめくった。
――光太の目に充血をもたらした要因は、会話を遡ればおのずと気付けるだろう。