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「アルコールランプが消えるまで〜理系くんと文系くんの青春ミステリー〜」1-3

「お前が選考にいればよかったのに」
 苦笑して、光太は椅子を戻した。どうにも気が抜けてしまった。ふらふらと座り、黒い実験台に左の頬をくっつける。ぼんやりと、アルコールランプの炎を見つめた。
「そんで? どうしてオレなんかを、科学部に引きこもうってわけ?」
「君はどうしてだと思う?」
 光太は実験台に伏せたまま肩をすくめた。「探偵のロジックが必要ってことは分かるけど」と、前髪をいじりながら呟いた。
 黙っていられない自分に、光太は心の中で自分を嘲る。まったく、呆れるほどの自尊心だ。科学部連中に何も考え付かない、ロジックなどない馬鹿だと思われたところで、なんら問題はないはずなのに。
「探偵ごっこでもしたいわけ?」
「そうとも言えるかもしれないけれど」
「少し違うかもしれないわねぇ」
 充一と万理子は顔を見合わせると、そっくりな笑顔を浮かべた。それはもう、とびっきりのいたずらを仕掛けたばかりの子どもみたいな、「無邪気」という形容がぴったりの――あの日以来、美乃梨が一度も見せなくなった、本物の笑顔だった。
「………」
「きっかけは、そう、やっぱりアルコールランプなのね」
 万理子は重力に負けがちの頬を押し上げるように、頬杖をついて炎を見つめた。
「さっきも話したかもしれないけど……使いにくいからってポイってしちゃうのはあんまりじゃない。だからせめて、アルコールランプとして役目を終わらせてあげるのがいいと思って。今年の春からこうして、放課後に火を灯してみているのだけど」
「火気である以上、側を離れるわけにはいかない。だから万理子先生は、一人ぼんやりと炎を眺めつつ、課題の採点とかをして時間を潰していたんだ」
「科学部が本当にあれば、放課後の実験も許可をもらえるところだけど。エア科学部じゃあ、そもそも申請のしようが――」
「待ってください! エア科学部ってなんすか?」
「君なら想像できるだろう? 科学部はとうに廃部になっているんだ。それでもこんな風に、放課後集まっているわけだから、まるで部活動みたいだねって」
「ね。充一くんに見つけてもらえて嬉しかったわぁ。それまでずーっと、ひとりぼっちだったんですもの。いくら炎の揺らぎが1/fゆらぎだからってねぇ」
「同じアルコールランプばかりじゃ、リラックスするよりも飽きますよね。火事起こさないように気を付けてなきゃならないですし……そういえば先生。リラックスで思い出したんですけど、最近読んだ脳科学の本が面白かったんですよ!」
「あら、どんな?」
「メモってるんで!」
 充一は制服の尻ポケットからスマホを取り出した。忙しなく動く親指の先を、万理子はにこやかに見つめている。教師のくせに、話が脱線していることを気にしないようだ。
「………」
 光太はすっかり呆れてしまった。
 同時に、胸の中がざわめいていた。目の前の二人があまりにも楽しそうで。科学という「同じもの」を共有する姿が眩しくて、うらやましくて、光太はゆっくりと瞬くと、そのまま目を閉じた。
 瞼の裏に、美乃梨の顔があった。
 新作ができたとはしゃいでいた笑顔が、どろりと崩れていく。その下から現れるのも、あまりにも綺麗な、絵画のような笑みだ。その艶めく桃色の唇は、やわらかな声で「おめでとう」と紡ぐ。
「………」
「……ちょっと! 充一くんのせいで光太くんが寝ちゃったわ!」
「僕のせいなんですかッ?」
「もう。えーっと、どこまで話したんだったかしら」
「アルコールランプは飽きるってとこっす」
 わざと大袈裟にため息をこぼし、光太は半分だけ目を開けた。「起きてるじゃん」という充一の呟きを聞き留め、ちらりと睨む。青眼鏡は、しれっとあさってを向いた。
「そうそう」
 頬杖をほどき、万理子はパチリと両手を打ち合わせた。それだけのことでも、空気は動くようだ。アルコールランプの炎が揺れた。
「本格的な実験は責任問題があるからできなくって。だったら思考実験しかないわねってことになったのよね。それなら、アルコールランプを眺めながらでもできるから」
「その思考実験ネタを考えている時に、百瀬光太の短編を思い出したんだ。観察は僕らの得意とするところだから、君のように人間を観察してみて、その不可解な行動を解き明かしてみるのはどうだろうってことになって」
「でもねぇ。わたしたちには答えを導くことができなかったの。どうしてもデータ不足のような気がしてしまって。もうしばらくって観察を続けているうちに、わけが分からなくなってしまうのよねぇ」
「だから、百瀬光太を仲間にしようと思ったんだ」
 ね、と充一と万理子は顔を見合わせて頷く。身勝手に。楽しそうに。そんな二人の姿に急に苛立ちが爆発して、光太は立ち上がった。デイパックを右肩だけで背負い、無言で扉を目指す。
「一つ!」
 背中に、万理子の声が刺さった。
「一つでいいの。謎を解いてみてはくれないかしら。光太くんの管轄でもある図書室での不可解だから」
「………」
 光太は足を止めた。けれど振り返りはしなかった。それでも了承と捉えたのだろう、万理子ではなく充一が語り始める。
「不可解行動をとっているのは、とある女子生徒だ。彼女はとても速読らしく、どんなに厚い本でも一晩で読んでしまうらしい」
「だったら、上限の五冊まで借りれば手間がないのに。奇妙よねぇ」
「さらに気掛かりなのは、彼女が本を借りると、必ずと言っていいほど本が傷んでしまうということなんだ。とはいえ僕が確認しているのは二冊だけだから、データ数としてはあまりに少なすぎるんだけど……」
「わたしも三冊確認したわ。二人合わせて五冊。それでもやっぱり、何かしらの結論を導くには少なすぎるわね。ほかにも何か、条件があるのかもしれないし」
「この謎に、君ならどんな理屈を付ける? 百瀬光太」
 光太はデイパックの肩ベルトを、強く握りしめた。足元、つま先が黒ずんだ上履きを睨みつけ、きつく眉を寄せる。
「オレは……」
「これは、三十年以上平教員をやってきた経験からの老婆心だけれど。光太くん。あなたはこの謎を解かなければならないわ。そうじゃないと、きっとあなたの心は陰ったまま。充一くんが気付いたように、胡散臭い笑顔でしかいられないわよ?」
「万理子先生!」
「あら、充一くん言っていたじゃないの。僕の認知科学的見解からすれば、光太くんの笑顔はどうにも奇妙だって。何かワケがあるなら、その理由を知ってみたいって」
「先生……」
「それに、自分とは違うロジックを持っている光太くんと、色々お話してみたいんでしょう? そうすればきっと、違う世界が見えるから面白そうだって。万理子おばあちゃん、とっても感動したんだけどなぁ。青春って感じで、とっても素敵よねぇ」
「もう、本人の前で勝手に暴露しないでください!」
 充一の声はすっかり慌てふためいている。光太はそっと息を吐き出すと、一歩、廊下へと足を動かした。
「一晩ください」