「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」1.5
第1・5話
本日の授業時に宿題として出そうと作ったプリントの束を抱え、金田乃愛が教室を目指し渡り廊下を進んでいた時だ。乱暴な足音を響かせて乃愛を追い越していく生徒がいた。
工藤亜香里。乃愛がこれから授業を行うクラスの生徒だ。
「………」
バタバタと遠のいていく彼女の背中にため息をつき、乃愛はやれやれと肩をすくめた。
せっかくツインテールにしているというのに、どうして左右の高さが違うのか。太さも違っていて、なんともモニョモニョとした気持ちにさせる。
あれは、今すぐ鏡を見てくるべきだ。
(これだから三次元は……)
乃愛はもう一度ため息をこぼした。世の中はアニメの世界のように、黄金比だけで成り立ってはいないのだ。自分をモブだと認識している乃愛は当然、ひっそりとした外見を選ぶ。
黒・紺・ダークグレイのロングスカートに白いブラウス。代り映えしない、色味のない服装で、学校という「舞台」の黒子に徹している。
そうして、同人仲間に、リアル学園ネタを提供して盛り上がる。そんな休日があれば充分なのだ。
とはいえ、ネタも易々と転がってはいない――退屈な気持ちで一年三組の教室に入った乃愛は、違和感を覚えた。その正体にすぐに気が付く。
窓際後方が席のはずの井上作哉が、教卓の前に座っている。
「……席替えあったの?」
なんでもないように首を捻りながら、乃愛は必死に動悸を押さえた。これまで遠かったせいで気付かなかったけれど、井上作哉は、乃愛イチオシの漫画キャラクターにそっくりだったのだ。今まで2・5次元には抵抗があったけれど、作哉が演じるならいくらでも投資できると思うほどに。
「違うよ、先生」
作哉はへらっと笑う。浮かんだえくぼまで、乃愛の心の中の〈彼〉と同じだった。
「二時間目の体育で眼鏡壊れちゃってさぁ。仕方ないから席交換してもらったの。じゃねぇと黒板ぜんっぜん見えねぇんだもん」
「そう。大変ね……」
教卓にプリント類を置きながら、乃愛はできるだけ静かに深呼吸した。目線を向けたくなる気持ちを必死に抑え、作哉へと背を向ける。微かに震える手で白いチョークをつかみ、今日の授業内容を書き出そうとした。
「乃愛ちゃん先生どうしたの? 顔真っ赤だけど」
背後から下川美鈴の声がした。くすくすと笑いを含んだ声は、わざとらしく続ける。
「もしかして、眼鏡なし作哉にときめいちゃった? 眼鏡ないとそれなりにイケメンに見えるもんねー」
「眼鏡ないとってなんだよ! どっちにしたって、オレみたいなガキ、金田先生が相手にするわけないだろ!」
「ええ? そうなのぉ、乃愛ちゃん先生?」
「私は」
眼鏡もアリだと思うけど、と言いそうになり乃愛は額を押さえた。動揺にふらつく足取りで宿題用のプリントの束をつかみ、同じく教卓の前に席のある美鈴に、いくらか乱暴に押し付けた。
「ごめんなさい。どうも熱っぽくて……今日は自習にします」
ふらふらと乃愛が教室を出ていけば、一年三組は一瞬で騒がしくなる。これはまずい。乃愛は四組で英語の授業中だった先生に一言告げ、職員室へと向かった。
職員室で一人きり、というわけにはいかなかったけれど。幸い、乃愛が属している二年生の先生が集まったデスクの島には、誰の姿もなかった。みんな授業中のようだ。他学年の先生は乃愛の時間割りなど把握していないだろう。乃愛が戻ってきても、ちらりと視線を向けただけで一言もなった。
(うわあぁ……!)
心の中で言葉にならない叫びをあげながら、乃愛は自分のデスクに額をぶつけた。一呼吸おいてから、デスク下のトートバッグに腕を突っ込み、スマホを引っ張り出す。画面のロックを解除すると、〈彼〉のイラストが迎えてくれた。
(神様!)
意味不明に祈りを捧げながら、乃愛はトークアプリを起動する。同人仲間に、猛スピードで〈彼〉のことを報告した。
『今日が非番だったことに感謝なさい』
仲間からの返事は秒であった。
『まだアニメ化してないのに。動いてたよ。喋ってたよ』
『腐ったミカンめ。逮捕するぞ!』
手錠を振り回す県警公式キャラクターのスタンプに、乃愛はくすっと笑った。「腐ったミカンかぁ」と呟きながら背後の窓、さらに遠い空を見上げた。
青かった。
未来を舞台にした〈彼〉の世界には赤い空しかない。〈彼〉はかつての青い空を求めて、世界に隠された謎を解き明かしている。
『どうしよう』
『辞表?』
『それは無理』
『うまく誤魔化せ』
うまくって……と乃愛はため息をこぼしつつデスクの上に伸びた。積み上げられたファイルやプリント、本類が、まるで壁のように乃愛を囲ってくれる。その中にいるとほっとした。頬の熱さもようやく落ち着きをみせてきた。そこに。
『いっそ、自分のものにすれば?』
仲間がとんでもない爆弾を放り投げてくる。乃愛はまた顔が熱くなった。きっと、美鈴が指摘してきたとき以上に赤くなっているだろう。
『生徒だから!』
『辞表』
秒単位で返される言葉は、その裏に文字数以上の問いかけが含まれている。「先生と生徒という関係じゃなきゃアリなの?」と。それこそ、高校時代からの付き合いがある乃愛には、たった二文字からも仲間の真意を読み取ることができた。
『推しキャラ似ってだけだし』
『中身はこれから』
『面白がってるだけでしょ』
『学園ラブコメディ』
目をキラキラさせた顔だけのスタンプが送られてくる。乃愛は頬を膨らませて、『ネタにはならん!』と怒りを込めたスタンプを返した。
ぱた、と仲間からの反応がなくなった。
気を悪くした、ということはない。彼女は無駄話をしない性格だから、すべてを語り切ったということだ。あとは乃愛自身が考えなければならない。
(教師失格なのかなぁ)
スマホの中の〈彼〉を見つめ、乃愛は細長く息を吐き出した。
先生が生徒に興味を持つ、というだけでも教育委員会が眉をひそめそうな話だというのに。そのきっかけが、漫画のキャラクターに似ていたから、などとなったら空想と現実の区別もつかない愚か者扱いされるだろう。
分別はある。
今日はちょっと、不意を突かれただけだ。あの外見が視界に入らなければ、乃愛はいつもの通り、新米教員らしく不慣れながらも授業を進められただろう。
「ああ、そっか」
乃愛はそっと眼鏡に手をかけた。
見えなければいいのだ。
「なぁ、下川」
押し付けられた古典の課題プリントを配り終え、下川美鈴が席に戻ると、井上作哉は眉を寄せた。
「さっきの。乃愛ちゃん先生がオレにときめいたってマジ?」
「ハ?」
美鈴は作哉よりも深く眉の間にしわを刻み、ウエストを折って短くしたスカートから伸びる脚を組む。もしかしたら下着が見えたかもしれないが、眼鏡のない作哉は気が付かなかった様子だ。
「ハ? って。下川が言ったんじゃん。マジ? オレ、眼鏡ない方がイケてるかな」
「別にどっちもどっちだけど……何あんた、マジで乃愛ちゃん先生狙ってんの?」
「狙ってねぇけど。なんか、下川のせいで気になってきた」
「バカだわ」
美鈴は呆れを込めて息を吐き、古典のプリントの上に頬杖をつく。本来なら授業が書き込まれていたはずの黒板を見つめた。
授業を投げ出し、教室を出ていった金田乃愛。
火照ったように朱に染まっていた顔は、一体何を意味していたのだろうか。チョークすらまともに持てないほど震えていたことを考えると、本当に病気だったのかもしれない。
「……でも。面白そうだから、応援してやってもいいけど?」
「面白そうってなんだよ」
「え、だって面白いじゃん。地味先生と地味眼鏡なワケじゃん? どうせならマスコミが騒ぐようなことしてよ。したらアタシ、インタビューとか受けちゃうから!」
ケラケラと美鈴は笑う。作哉は不愉快そうに鼻を鳴らすと、体育で眼鏡を壊す間抜けぶりにふさわしい、ひょろりとした腕を組んだ。
「お前のネタになりたくねぇから、告るのは卒業式の日にしてやる」
「マジで!? あんた本気で乃愛ちゃん先生狙うワケ!?」
「分かんね。でもさ、オレってまだ一年じゃん。三年になっても気になってたら本物って感じすんじゃん。なんかそれって良くね?」
へへ、と作哉はえくぼを浮かべる。
その笑顔がキラキラと輝いて見えたものだから、美鈴はため息をつくと頭を抱えた。
「バカだわ!」