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「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」1-2

 それは、ハーブ図鑑が貸し出されたのが、ほんの三十分前であることを示していた。
 返却カウンターにいた光太が、なんとなく記憶していた通りに。
「やっぱり。山内先生は――」
「万理子先生って呼んで欲しいわ。この歳になるとね、同僚はみんな年下ばっかり! だあれも下の名前で呼んでくれないんだもの。孫だってね、おばあちゃんおばあちゃんなのよ!」
「……万理子先生は、物理実験室の鍵を開けてから、図書室に行ったんすよ。鍵をわざと落としてくるために、、、、、、、、、、、、、、
 表情を変えることなく頬杖をつく万理子の目には、ゆらゆらと、青からオレンジへとグラデーションを描く炎が映っている。なんとなく、アルコールランプの炎はオレンジ一色だと思っていた光太に、それは不思議な色合いに見えた。
「わざとって?」
「動機は分かんないっすけど。山内……万理子先生は、ほかの物理の先生が鍵を落とした可能性をすぐさま否定したでしょう? それができたのって、鍵の状況を知っていたからじゃないっすか。だから、わざと落としてきたんじゃないかなって」
「まあ!」
 万理子は大きく見開いた。乾燥がちで、シミの目立ち始めた両手の指を組み合わせ、祈るようなポーズをとる。リアクションがいちいち少女漫画のようで、光太は思わず笑いそうになる。それを、奥歯を噛みしめて阻止した。
「光太くんって、本当にエレガントなロジックを持っているのね!」
「エレガントなロジック?」
 たぶん、褒め言葉なのだろう。けれど、光太にはいまいちピンと来なかった。優美な論理とはどういうことだろうか。首を捻る光太の向かいで、万理子は「うふふ」と目尻のしわを深くした。
「わたしも光太くんのこと、とっても気に入りました。ね、どうかしら。あなたも科学部に入らない?」
「科学部って……オレ、国公立文系コースなんすけど。法曹界目指してるんで、科学はちょっと、毛色が違いすぎるっつーか……」
「まあ、もう将来を決めてるの? それは素晴らしいわね! そういえばあなた、文系クラスの首席だったかしら。職員室で話題になっていた気がするわ」
「いえ、たまたまです」
 光太は照れ隠しに頬を掻いた。勉強は性に合い、好きでやっていることだけれど。褒められれば素直に嬉しいものだ。
 担任が、自慢げに目をかけてくれることも。期待してくれることも。
 嬉しいことではあったけれど……光太の中には時々、隙間風が吹く。「将来有望な生徒」というのは「都合のいい生徒」でしかないのではないか。呼び出しを食らって笑うクラスメイトを見ると、光太は自分の価値を見失いそうになることもあった。
 だから――
「でも、それならなおさら、科学部をお勧めするわ。そこまで未来を決めているのなら、きっと今を逃したら、光太くんは科学に関わらなくなってしまうかもしれないもの」
「………」
「せっかく学生なのよ。だったら今しかできないこと、自分一人ではできないことに関わってみないともったいないわ。例えばこの、アルコールランプとかね」
 ふ、と万理子は青とオレンジの炎に向けて軽く息を吹きかけた。揺らめいた炎はまるでまじないのようだ。光太は思わず見つめてしまった。
「アルコールランプはね、学校から消えていっているの。西高でも処分予定なんだけど、わたしが定年退職するまではって見逃してもらっているのよ。燃料のアルコールがねぇ、エタノールだけじゃなくってメタノールも含まれているものだから、処分も楽じゃなくってね。だからこうして、放課後に燃やして在庫処分しているの」
 終活みたいね、と言って万理子はちらっと舌を出した。光太はどんな言葉を返せばいいか分からず、軽く唇を噛むことしかできなかった。
「ねぇ、光太くんは知ってる? どうして教育現場からアルコールランプが消えていっているのか」
「……知りません」
「そう。やっぱりね」
 ふふふ、と笑う万理子には、光太を馬鹿にしている様子はない。けれど、先ほどの言葉のように「もったいない」という感情が色濃く滲んでいた。
「光太くんはあの子とは違うのね。あの子なんかは即答して、アルコールランプにさわれるって大喜びだったもの」
「あの子?」
 反射的に声に出してから、光太ははっと閃いた。万理子の話の中にはこれまでずっと、もう一人、誰かの存在が見え隠れしていた。
 ――あなたも、、、、アルコールランプに興味があるのかしら?
 ――本当に、、、エレガントなロジックを持っているのね!
 ――わたし光太くんのこと、とっても気に入りました。ね、どうかしら。あなたも科学部に入らない?
「あいつか!」
 思わず光太は振り返る。そこに「彼」の姿はなかった。けれど、西日に照らされた廊下のリノリウムには、人の影らしきものが伸びている。
 光太は、その影を睨み付けた。
「……ってことは、鍵は落としたんじゃなかったんすね。あの青眼鏡が持ってきたんだ。じゃあ動機は、オレ?」
 光太を物理実験室――科学部に誘導するために、鍵を押し付けたということだ。なんのために? ますます動機が分からなくなり、光太は口をへの字に曲げた。
「やっぱりいいよね、君のロジック」
 くすくすとした小さな笑いと共に、廊下の影が動いた。扉から姿を現したのは、光太の推測通り、図書室で鍵を渡してきた青い眼鏡の理系少年だった。
「お前……」
「科学は当然推論を用いるけれど。最終的には確率でしか語ることができない。個別のデータではなく複数のデータから近似曲線を引いたりとかね。物理も化学も因果関係を語りはするけれど、それだってあくまで蓄積された実験の歴史によるものだから」
 光太が日常的には使わない単語を並べ立てながら、青眼鏡はまっすぐに、アルコールランプが揺らめく実験台へと歩いてくる。
「だから、限定的なデータから結論を断定してしまうロジック、有り体に言えば探偵のロジックを持つ君、百瀬光太に興味があったんだ」
「………」
「なんでって顔をしているね」
 青眼鏡は机の向こう、万理子の背後の窓に寄り掛かり、にやりと笑った。
「僕も例のミステリ雑誌の愛読者だから。まさか『百瀬光太』が本名だとは思わなかったけれど……あの短編小説は少し、異質だったよね。類型的な創作物とは違って、どちらかといえばノンフィクション、エッセイのようだった。探偵のロジックを持つ少年の目が捉える日常を書き出しただけに過ぎない――」
「理系のくせに何が分かるんだよ!」
 光太は叫んだ。立ち上がるほどに憤っていたことに気付いたのは、椅子の倒れる音が響いたからだ。それほどまでに動揺していた。
「どうせ、国語の点数悪いんだろ」
「そりゃあ良くないよ。そもそも僕が得意とするのは物理だけだから、入学式で新入生代表挨拶を任される、入試首席くんには想像できないほどの馬鹿だろうけれど」
「そうねぇ。充一じゅういちくんは物理だけなら東大クラスの偏差値なのにねぇ」
「万理子先生、どうせなら僕、京大の方がいいです」
「んー、どちらにしろ、ほかの科目の成績が今のままだと、共通テストの段階で絶望的かしらね」
 充一は涙を堪えるようにきつく目を閉ざすと、青い縁の眼鏡を押し上げた。
 この寸劇はなんだろうか。突っ込んだ方がいいのだろうか……光太は深くため息をつくと、猫のようだと言われる髪をぐしゃぐしゃにした。
「確かに、お前の言う通りあれはエッセイで、小説じゃなかったけど……」
「どうして分かったかって? 君の言葉で返すなら理系だからさ。僕はたぶん、本を分類思考で読んでしまっているんだ。構造やパターンを分析してね。そうして、これまでの読書によって僕の中に出来上がったロジックに当てはめてみれば、君の作品はエッセイだった。それだけのことだよ」