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ムーンクッキー

 南岸低気圧の影響を受ける二月の風は冷たく、暮らし慣れたボロアパートの錆びた階段が見えた月也つきやは、思わず走り出した。高く足音を響かせて部屋に飛び込む。エアコンを使っていなくても外気がない分だけ暖かいはずの室内は、ひゅうっと寒さに満ちていた。
陽介ようすけ?」
 いつもは出迎えてくれる同居人が姿を見せないのも違和感だ。月也は脱いだスニーカーを揃えずに、風の流れを遡ってベランダに向かった。
 陽介、と開きっ放しの窓から顔だけを出す。ベランダにセットされたアイアンテーブルに突っ伏した陽介は、顔を上げることなく灰色の空の下で髪を揺らしていた。
「……風邪ひくから」
 ひどく落ち込んでいることを気にしつつ、月也は陽介に、自分が着ていたダウンジャケットをかぶせる。とりあえず中に戻ろうと促した。頷いた陽介はうつむいたまま、ジャケットに袖を通して立ち上がる。ずれた眼鏡もそのままに、月也のあとをついてきた。
 どうしたものか……考えた月也は、こたつに入るよう肩を押して座らせる。自身は天板を椅子にした。行儀の悪さに対するツッコミがないことが、陽介の落ち込み具合をよく表していた。
 心の中で唸りながら、月也はくしゃくしゃと髪をかき乱す。頭の中の語彙を探って、最も適切な切り出し方を吟味した。
「えっと……俺に話してもらえる?」
 小さく頷いた陽介は、天板に額をくっつけた。
「今日って、二月十四日じゃないですか」
「ああ」
「だから先輩に、普段の感謝を伝えようと思って、アーモンドチョコレートを買ってこようとしたんですけど……忘れちゃって」
 そう、と相槌を打ちつつ月也は脚を組む。目を鋭く細め、ため息に合わせて揺れる陽介の頭を見つめた。
 ――嘘だ。
 確かに「今日」ということには意味があるかもしれない。けれど、買い忘れた程度で寒空の下に突っ伏すような陽介ではない。第一、彼なら自作することを選ぶ。去年もその前の年も、陽介は今日という日に手作りしたものを用意していた。
 それなのに、今年に限って買い忘れを主張し落ち込んでいる……不自然さには意図がある。月也はそっと息を吐き、窓の向こうに視線を投げた。
 閉められた先に、ちらちらと白が舞い始めている。上空を寒気が覆い尽くすようなこんな日に、陽介はなぜ、窓を開け放していたのか。これもまた、不自然だ。
 不自然さは、そこに隠された心を語る。
「陽介」
「……はい」
「本気で俺を誤魔化せると思ってた?」
 いいえ、と陽介はこたつに突っ伏したまま首を振る。「じゃあいいや」と月也は微かに笑った。
「『それ』に合うのは、紅茶とコーヒーどっち?」
「……ココアがいいと思います。今日は冷え込んでますから」
「なのに、馬鹿な真似してんじゃねぇよ」
 月也は陽介のこめかみを指で弾いた。うぅ、と呻いた陽介は、諦めたように頭を持ち上げる。ずれていたべっこう色の眼鏡を押し上げた。
「用意してきます」
 しょんぼりとした声で、陽介はダウンジャケットを脱ごうとする。月也は、まだ身体が冷えているだろうからと止めた。陽介は頷き、靴下の足でキッチンに向かう。
(俺が準備してやれたらいいんだろうけどな……)
 ココア一杯、うまく淹れられる気がしない。何よりも、と月也は陽介の背中に、自分勝手な感謝を向ける。
 ココア一杯でも作ってもらいたいし、彼もまた、自分の手で作りたいだろう。
 雪予報の中で窓を開け、部屋の空気を入れ替えてまで「作った痕跡」を消そうとした陽介だからこそ。中途半端に終わらせたくはないはずだ。
 キッチンに覗きに行きたい気持ちを抑え、月也はこたつに潜り込んだ。
(ココアってことは焼き菓子かな……)
 おそらく、チョコレートも使われていない。こたつのぬくもりを感じながら、月也は推理にもならない想像を楽しむ。ココアもチョコレートも原料は同じカカオ豆だ。チョコレート菓子にココアを添えたらくどいだろう。
 ココアが合うとしたら、シンプルなバニラクッキーだろうか。冷凍庫に生地を保存しているくらいには、陽介には手慣れたメニューだ。それを、作ったことに気付かれないように隠そうとした。
(サプライズ演出ってこともなさそうだしなぁ)
 陽介は本気で落ち込んでいた。とすれば「失敗」したのだ。作り慣れた焼き菓子で、取り返しのつかないミスを犯すとしたら……。
 ココアの甘い香りを漂わせて、陽介が白と黒のマグカップを手に戻ってくる。右手にはカップだけではなく、リボンの揺れる袋に入った白と灰色のクッキーがあった。
 クッキーは、バラバラに割れていた。
「月を作ったんです」
 月也の前に白いマグカップと袋を置き、陽介は眉を下げて呟いた。
「簡単ですけどラッピングして、先輩のパソコンデスクに持っていこうとした時、手が滑っちゃって……」
「海の部分はゴマクッキー?」
「え、はい」
「ティコクレーターもちゃんとあるじゃん」
 袋を開けた月也は、へこんだ円から光条レイ――放射状に模様が走っている部分をつまむ。光条は粉糖を使って、さらにそれらしく仕上げられていた。
 一口かじれば、さく、と軽い音が立った。甘さが控えめになっている。はじめから、ココアと合わせることを考えて作ったのだろう。
「うん。美味い」
「……ありがとうございます」
 角を挟んで斜めに座る陽介は、肩を落としたままココアをすする。月也は、ウサギの耳の部分だったのだろう、大きめの破片を取り出した。さらに半分に割り、片方を陽介に差し出す。
「どうせこうやって、二人で食べることになったんだからさ」
「でも……」
「じゃあ、重力の話から月を手にする難しさでも語ろうか」
 灰色のゴマクッキー部分をかじった陽介の眉が寄る。なんでそういうことになるのか……訴える視線に月也は微笑んだ。
「陽介がクッキーを落としたのは当然、地球の重力のせいじゃん。でも、地球の六分の一とされる月の重力下だって、物はやっぱり落ちるわけでさ」
 月也も月の海の部分をかじる。黒ゴマペーストの風味が香ばしかった。
「六分の一とはいえ重力があるってことが、月探査機の月面着陸を難しくしてるんだよ」
「……そうなんですね。僕はもっと簡単に、とりあえずぶん投げれば届くだろうって思ってました」
「すげぇ雑な認識だな」
「だって、あんなに大きく見える星ですから」
 陽介は見えない月を求めるように天井を仰ぐ。月也は親指の先に残っていた白く細かい砂糖の粒を見つめた。
「他にも、レゴリスっつー月面上の細かすぎる砂が厄介でさぁ。粉糖みたいにまとわりついてきて計器に悪影響を及ぼすわけで……」
 親指の粉糖を舐めた月也は、あ、と大事なことを思い出す。睫毛の先を震わせると、月を探すふりをしてベランダに目を向けた。
「……いつも、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
 窓の向こうの雪は、明日の路面が不安になるほど強まっている。けれど、陽介の声には明るさが戻っていた。
 それなら、問題は何もない。

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