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「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」3-1

     第3話

 宇山美乃梨と決別したからといって、光太が図書委員を辞める、ということはできなかった。だから、放課後は最短三十分、図書室で働かなければならない。
 最短、というのは部活動を行っている場合だ。
(あと五分……でも、オレは別に)
 返却されてきた本を棚に戻しながら、光太は壁の時計にため息をこぼす。部活に入っていれば、あと五分で図書委員の仕事を切り上げられる。けれど光太はまだ、エア科学部部員であることを認めていない。
 それでも、今日は早く物理実験室に行きたかった。
 貸出返却カウンターの下に無造作に置いたデイパックの中に「あるもの」が入っているせいだ。それを早く、充一に見せたかった。
 壁の時計の長針が6をまわる。バスケ部とブラスバンド部の委員が、軽い挨拶を残して出ていく。
「………」
 光太は腕の中、美術部員か漫研の誰かが借りたのだろう、デッサンの本を睨んだ。かちん、と針が回る幻を聞いた。瞬間。光太は本を抱えたままカウンターへと戻る。
「委員長!」
 丸い眼鏡の図書委員長は、無言で口元に人差し指を立てた。委員が騒がしくするなど言語道断、と怒りのオーラが放たれる。光太は首をすくめると、彼女に顔を近付けた。
「すみません……あの。今日オレ、先生の呼び出し食らってて」
「百瀬くんが?」
 図書委員長は長い睫毛を瞬かせる。光太は苦笑すると、手の中の本をカウンターへと置いた。
「そんなオレ、優等生じゃないっすから。だから、あの」
「分かったわ。あとは園田先生とやっておくから大丈夫よ」
「すみません」
 微笑む図書委員長に会釈して、光太はデイパックをつかんだ。走り出したい気持ちを抑え、大股で図書室を後にする。階段が見えるとついに耐えられなくなって駆け出した。
 C棟の三階へ。
 廊下にはスンと鼻を抜けるミントの香りが漂っている。アルコールランプによって、万理子のアロマオイルが熱され拡散しているのだ。その清涼感ある香りは、しつこく暑さが残る放課後にはぴったりだった。
 そして同時に、光太のはやる気持ちも落ち着けた。
 実験室まで一メートルというところで、光太は一度足を止めた。キュ、と湿度の高さに靴が鳴る。この時間、物理実験室前を通る人物など限られている。音だけで、充一は光太の訪れに気付いたかもしれない。
(何、浮かれてんだよ。オレは……)
 光太は深く息を吐き出す。その分、ミントの空気を吸い込んで、ゆっくりと実験室へと入っていった。
 久米充一は、窓際の柱部分に抱き着いている――
 なんでもないように彼の存在を視界から外し、光太はアルコールランプの前に座った。ランプの上には金属製の背の高い三脚がかけられ、金網が置かれている。金網の上には小さなビーカー。中にあるのは透明な液体だ。
「これ全部がアロマオイルなんですか?」
 デイパックを下ろしながら、向かいの万理子へと首をかしげる。「まさか!」と万理子は否定して、薄くなった白髪をふわふわと揺らした。
「これが全部オイルだったら、何十万になるか分からないわ。水よ水」
「水?」
「そう。オイルは可燃性だから直接火にかけてはいけないの。だからね、こうして水を張った容器の中にちょっとだけ垂らすのよ」
「へぇ……」
「あら、ケチなわけじゃないわよ。正しい使用法なんです」
 ピシッと万理子は白衣の襟を正してみせる。アルコールランプだけではなく、三脚やビーカーといった小道具が揃ってくると、なおさら彼女が理科教員らしく見えた。
「ところで先生。これは実験って扱いにはならないんですか?」
「……自腹ですもの」
 万理子はふらふらと視線を泳がせる。「自腹よ」と言い聞かせるように呟いて、ずらりと並べられたアロマオイルのボトルの前に、両手で頬杖をついた。そうして、ふくふくとした笑顔になる。コレクションを眺めるのが好きなのだ。
 趣味の時間を邪魔するのも気が引け、光太は足元に置いたデイパックを持ち上げた。毎日必ず入っている文庫本を取ろうとして、今まではなかった手触りを感じる。その、つるりとした冷たさに、光太はたまらず口をへの字に曲げた。
 何故、今日に限って、久米充一自体が「不可解」になっているのだろうか。
(解くか……)
 おそらく、万理子も充一も、解かれることを待っている。だから、しれっと光太が眼中から消しても、突っ込みを入れなくても、あえて騒ぎ立てないのだ。
 待たれている。
 ならば、この不可解に、光太は理屈を与えなければならない。
 ヒントを求めて視線を巡らせる。光太の座る席のとなり、黒い実験台の上にはプリントが一枚置かれている。名前の欄には、ふにゃふにゃとやる気のない筆跡が、充一の名前を綴っていた。そばに、芯が勝手に回ることでいつまでも尖った状態が保たれるシャープペンシルが転がっている。二十二世紀生まれの猫型ロボットが描かれた、ある意味で充一らしさを感じさせるキャラクターもののシャープペンシルだ。思えば充一は、あの眼鏡の少年に似ているかもしれない。
(課題は、松尾芭蕉か)
 A4サイズの紙を横に使い、縦に文字が並んでいるだけで、ちらっと見ただけで国語系科目だと分かったけれど。古典とも現代文とも言い難い俳句が課題になっているとまでは予想できなかった。
 さらに。
「久米、中間の現文、平均点以下だったのかよ」
 思わず光太は呟く。中間試験の出来が悪かった生徒の救済措置として、このプリントは作られたようだ。きっちりと、プリントの右端に、太文字で記載されていた。【中間試験補習課題】と。
「現文だけだと思うなよ!」
「偉そうに言ってる場合じゃないでしょう!」
 柱にくっついたまま得意がる充一に、すぐさま万理子のツッコミが入った。
「あなた、理科と数学以外全滅してたじゃないの!」
「失礼ですよ先生! いくら僕だってそこまでひどくありません。社会科科目たる地理はきっちり抑えました。物理、化学、数Ⅱ・B、地理で合計点四三〇超えてます。優秀でしょう!」
「地理は地学の知識で誤魔化したのがバレバレです。英語、現文、古典なんて合計一三五以下じゃないの。英語もできずに科学好きを語るんじゃないわ!」
「脳科学的に第二言語習得は無茶なんですよ! 言語論と脳科学は万理子先生だって知ってるでしょ。文法はすでに脳にインプットされてるって説。それが生活環境に合わせて特化されて、不要な部分が削除されていくんだ。僕は日本で生まれ育ったんだから、日本語のプロフェッショナルになるかしかないんです。外国語の発音、文法は脳が効率的に忘れてしまったんだから」
「だったらなんで、現代文まで赤点なんだよ。日本語のプロフェッショナルなんだろ」
 名前以外はまっさらなプリントを横目に、光太はため息混じりに笑う。うわぁん、と泣き真似をする充一は、やっぱり漫画キャラの眼鏡の少年のようだった。
「その点、光太くんは心配がないわね」
「教科書を覚えるだけなら……でも、きっと、頭がいいのは久米の方ですよ」
「あら?」
「僕が!?」
「教えてやんね」
 光太は意地悪そうに目を細め、三脚の下のアルコールランプを見つめた。今日もふらふら、炎は青色を中心にオレンジ色を揺らめかせている。