見出し画像

「アルコールランプが消えるまで~理系くんと文系くんの青春ミステリー~」3-3

 なりたいものを語るのが夢なのではなく、やりたいことを語る。その実現のために生き方を考える方が建設的なはずなのに。どうして、なりたい仕事を決めさせるのが夢なのだろうか……。
「久米の夢って何?」
 科学者とでも言うのだろう。シャープペンシルが走る音を聞きながら、光太は勝手に決めつけていたけれど。
「科学と共に生きること」
「それ、今と違うの?」
「じゃあ、僕の夢は生き方の維持だね。科学を楽しめる自分を維持したい。そのために働いて、健康でいて……なんて、百瀬にはちっぽけに聞こえるかもしれないね」
「いや。いいと思うよ」
 いいと思う、と光太は口の中だけで繰り返す。その舌に感じる不可解な苦みはなんだろうか。気付いてはいけないことに気付き始めているような気がして、光太は左右に首を振った。デイパックの中から、今日一番のメインたる「あるもの」を引っ張り出す。
「久米。課題が終わったら――」
「最新機種じゃん!」
 久米充一は目敏かった。実験台の上に置いた光太の赤いスマートフォンを、断りをいれることなく手にする。キラキラと目を輝かせる彼の脇を、青い印象のシャープペンシルが転がり落ちた。
「うわぁ、カメラが! 厚みが! この重さが! わぁ……どうしたんだよ百瀬。君ってガラケー派じゃなかったわけ?」
「ガラケーもある」
「二刀流!?」
 充一は「参りました」とでも言うように実験台に突っ伏した。恭しく返されたスマホを受け取りながら、光太はほっとした気持ちで笑う。
 想像通りの反応だった。
 きっと充一なら、ハイテンションで騒いでくれると思っていた。
「指紋認証とかの設定はお店で済ませてきたんだけどさ。アプリとかよく分かんなくて。久米ならそういうの得意じゃねぇかなって」
「僕じゃなくても。クラスの友だちで充分だと思うけどね」
 ロックを解除された状態で渡されたスマホに、充一はたまらず眉を寄せた。
「百瀬、これ、本当に何もしてないね。広告まがいの不要なアプリばっかりじゃないか」
「ああ、なんか店員じゃアンインストールとかできないみたいで」
「方便だけどね。とりあえず、さくっとストレージ綺麗にしてから……百瀬は何か、希望のアプリとかある?」
「さあ、浦島太郎状態なんで」
「浦島効果は時間の進み具合の違いによってもたらされるだけで、未来に行くわけじゃないけどね。百瀬なら、文庫アプリとかが便利かな。著作権切れの作品がタダで読めるやつなんだけど。縦書き明朝体に対応してるから」
「へぇ」
「トークアプリは入れても大丈夫? なんか前、嫌がってたような気がするけど」
「あー……」
 それが、光太が二台持ちになっている理由だった。
 学校外でまで、つながっていたいとは思えない。クラスメイトに縛られないために、時代遅れの携帯電話を残してもらったのだ。余計な費用が発生することを良く思わない父親を説得するのには骨が折れた。家にはパソコンがあり、ネット環境も整っていたために、それを口実にスマホを導入することもできなかった。
 最終的に父親が折れたのは、光太が電車通学だったおかげだ。スマホでなら予備校の動画を見ながら登下校できるから――勉強のためなら気前のよくなる父親だった。ガラケーの必要性は、スマホを必要最小限の使用にすることで、学びの邪魔をしないためと言い切っておいた。
「とりあえず、久米と同じの入れといてよ」
「僕のなんて、日本の過半数を占めるアプリだから。クラスメイトの大半が同じものを使ってると思うけど。じゃあ……友だち登録はしてもオッケー?」
「しなきゃ、アプリの意味ねぇだろ」
「だね。万理子先生はどうします? せっかくだからエア科学部のグループでも作りますか?」
 炎を見ながらうつらうつらしていた万理子は、ハッと目を見開いた。よだれでも垂れたのか、手の甲で口元を拭いながら左右に首を振る。
「二年くらい前の生徒の中に、わたしじゃ力になれなかった子がいるのよ」
 寝ぼけているのかもしれなかった。
「その頃はまだ、わたしもスマホデビューなんてしていなくって。今でも技術の進歩には置いてかれがちだけど……あの子の言葉は今でも、わたしの中で不可解となってこびりついているわ」
「何があったんですか?」
「どんな言葉だったんですか?」
 充一と光太は同時に万理子を見る。万理子は、ぽたん、とペパーミントオイルを一滴落とした。沸騰とは違う小さな気泡が側面に張り付く、ビーカーの水面が不規則に揺れる。
「そうね。同じ高校生たるあなた達なら、どんな理屈を付けてくれるのかしらね」
 ぽたん……二滴目のミントに、目の覚めるような爽やかな空気が濃くなった。
「二年前の、夏の終わりごろの、真っ赤な夕焼けに照らされた教室でのことだったわ。『万理子先生、あたしはここにはいないみたい』って……目の前でね、銀色の携帯電話を折りたたんで。泣きそうに笑って。あの子ったらそのまま退学してしまったのよねぇ」
 万理子のため息が、青とオレンジ色の炎を揺らす。
 光太と充一は視線を交わした。まるで譲るように、充一が左右に首を振る。光太は軽く頷くと、新しすぎて手になじまないスマホを撫でた。
「その口ぶりだと、万理子先生が担任をしていたクラスの生徒ってことですよね。放課後の教室で語り合うって、担任以外だと場違いっぽいですし」
「ええ。わざわざ呼び掛けてくれたのよねぇ……」
「そして彼女は、オレとは反対にスマホからガラケーに変えたことがきっかけとなって退学を決めたらしい」
「あら。どうしてそう考えるの?」
「そう考えているのはオレじゃありません。万理子先生がそう感じてたんです」
 断言した光太は、ふと、充一の言葉を思い出した。限定的なデータから結論を断定してしまうロジック――科学とは違うらしい頭の使い方は、たぶん、国語的だ。
 目の前に提示されたセリフ、描写、行間から、物事を読み解いていく。
 今もそうだった。光太が気になったのは万理子の発言だ。その中には充分に、退学した女子生徒についてのヒントが含まれていた。
「万理子先生はこの話を始める時、スマホデビューしていなかったことを嘆いたじゃないっすか。それって、もし自分もスマホを使っていたら、退学した女子の気持ちに寄り添えたかもしれないって後悔してるからっすよね」
「ええ……」
「けど。女子が……その生徒の名前って、聞いちゃまずいですか?」
「まずいということはないと思うけど。そうね、仮にリョウコちゃんにしておきましょうか。エア科学部らしく量子からいただいて」
「じゃあリョウコ……先輩が、先生に意味深な発言をした時には、パカパカタイプの携帯電話を持っていた。このズレから考えられるのは、スマホだったリョウコ先輩はなんらかの理由でガラケーに変えた。そして、明確には口にしなかったけれど、万理子先生にそれが退学理由であることをにおわせるためにガラケーを持ったまま、例の『あたしはここにはいない』という言葉を口にした。って考えるのが、スマートな物語っすよね」
「そうかもしれないわねぇ」
 万理子は薄い睫毛の瞼を伏せる。しんみりと湿っぽい彼女とは裏腹に、光太のとなりからは明るく乾いた拍手が響いた。
「さっすが百瀬! やっぱり君のロジックはユニークだ」
「どうも。つっても、ここから先はオレもあんま自信ねぇな。スマホについては無知同然だから」
 なんともなしに、光太は自身のスマホのロックを解除する。何かも知れないアイコンが並んでいたはずの画面は、すっきりと片付いていた。