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閉じた表面と開かれる理解

先日、展覧会のチラシのデザイン案があがってきた。近づいてきたなとじんわり焦りも感じつつ、展覧会の一つの顔となる広報物のデザインを見るのは嬉しいことだ。これまでのデザインもそれぞれ良かったけれど、今年はまた違った雰囲気。展覧会から生まれるのは作品だけではなくて、こういう広報物も生まれる。お互いを形づくり方向づける相互的なものなのだと思う。
いろいろあるけれど、時間をかけて展覧会に足を運んだ人が、何年経っても身体が覚えているような鑑賞ができたとしたら、それ以上望むことはない。まずは多くの人の手にチラシが届きますように。

さて、その後の私の制作について。一つ大きかったのは、博物館に展示されているバクの化石の研究をされた古生物学者の方に会いに行き、インタビューができたこと。事前に手に入る資料を読むなかで、これは作品になりえると思えるポイントがあったのだが、実際に制作を進めていくと、そうした感覚的なひらめきはボッコボコにされるというか、とにかく試され続ける。試され続けても残るものが最終的には作品に大切なものなので、それはそれでいいのだが、情報が十分な肉をもたないまま進めるのは、心許なかった。お話をうかがえたことでだいぶ筋肉がついて、またボコボコとやりあっていけそう。
そして、私が博物館に行ったときの、なんとなく落ち着かない気持ちのわけにも気づいた。たとえば化石一つ見ても、色や形、表面の状態などを楽しむことができても、本当はその表面からわかるはずの多くのことを自分が読みとれないことの歯痒さがあった。見ているのに見えていないというような。もちろん解説文を読めばわかることもあるし、一般の人にわかるように丁寧に書かれたものばかりだ(そもそも、そうした閉じた表面をじっと見つめる時間はけして悪いものではない)。でも、「わかる」と感じられるのはそういうレベルとは別のなにかが必要なのだと思う。今回の制作のために、動物園や植物園(すべてミュージアム)にも通っているが、そこでのなんとなくの居心地の悪さも、一部は同じような理由からくるのかもしれない。違和感は、距離を変えて見れば大事な指針となるので、見つめすぎず、しかし無視しないこと。

この日は、前日に別のところの取材を、個人というのを理由に断られたばかりだったので、その研究者の方に時間をつくってもらえたことのありがたさが、殊更に身にしみた。しかし、暑い。

大和

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