石川達三『生きてゐる兵隊』(3)「譲歩できる自由」とは何なのか【禁書を読む】
『生きてゐる兵隊』が掲載された雑誌『中央公論』は発売禁止の行政処分を受け、さらに石川達三は中央公論社の編集者とともに、安寧秩序を紊(みだ)したとして有罪判決を受けた。すべては、不都合な真実を国民や海外に知らされたくないという軍部や政府当局の思惑によるものだった。
それでは、『生きてゐる兵隊』以降の石川達三の歩みはどんなものだったのか。キーワードの一つは「自由」だった。
再び中国へ
有罪判決を受け、石川達三はどんな心持ちになっただろうか。
自分は書くべきことを書いたのであり、間違ってはいないという思いが一番だったに違いない。一方で、自分の筆によって、中央公論社とその編集者に迷惑をかけたことを悔いたのもまた確かだろう。彼らのために何かできないか、と考えるのは当然のこと。そして作家が「何かする」といえば、やはり書くことである。
彼は一審判決が出た直後の1938(昭和13)年9月、再び中央公論社の特派員として中国に向かう。今度の行先は武漢だった。
出発直後の9月18日の読売新聞夕刊に掲載された原稿で、石川達三は「戦争は人間の魂の素晴しい燃焼で、文学の対象として野心を感ぜざるを得ない」として、書くために戦場に赴くことについてこう綴っている。
要するに、書きたいことを書けないといって何も書かずにいるより、多少筋は悪くても、戦場に行って書けること(書いても許されること)を書くぞ、という宣言だ。開き直りといってもいいかもしれない。
この言葉の通り、『中央公論』1939(昭和14)年1月号には、石川達三が武漢攻略戦を題材に書いた『武漢作戦』が発表された。それは、武昌、漢口、漢陽の「武漢三鎮」を攻めた日本軍の戦いを客観的に描いたものだった。
しかし、『戦争と検閲』で石川達三の作品に向き合った河原理子は、この作品を「率直に言って、面白くない」と切り捨てる。それはなぜか。軍の機嫌を損ねないような当たり障りのない記述にとどまっているのが大きな理由なのではないだろうか。
名誉回復と引き換えに
白石喜彦は、この作品は石川達三にとって、自分は反戦主義者ではないという「名誉回復」と、中央公論社への「償い」の意味を持つものだったとした上で、その姿勢を鋭く批判する。
石川達三はここにおいて、戦場と軍隊の恐るべき、あるいは恥ずべき真実を伝えようとする思いを放棄したのではないか。
これ以降の彼は、言葉を選ばずにいえば「変節」を遂げる。呉恵升は『石川達三の文学』の中で、戦時下で彼が雑誌や新聞などに発表した作品を列挙している。印象的なタイトルの評論やエッセイをいくつか挙げてみよう。
『英国が敵である証拠』週刊朝日 1940年8月25日
『勝つ為の言葉』読売新聞 1941年12月10日朝刊
『蘭印機撃墜!磨き上げられた科学力』読売新聞 1942年3月3日朝刊
『沈む船に非道い置去り 日本潜水艦に救はる 英人を呪ふビルマ人と印度人』朝日新聞 1942年5月18日朝刊
『これが海軍魂だ』サンデー毎日 1942年8月2日
『凄絶!ソロモンの大夜襲戦を語る 丹羽文雄と石川達三対談録』モダン日本 1942年10月
『一億が二億の実力を!「誓ひの会」に就いて!』週刊朝日 1943年4月4日
『艦と運命を共に!山口・加来 両提督の忠魂を偲ぶ』週刊朝日 1943年5月16日
『昭和白虎隊を造れ!』週刊少国民 1944年2月27日
『職場は魂の教室 倒れるまで神州護れ』読売新聞 1944年8月31日朝刊
正直どれも、読みたいという意欲はまったく湧いてこない。中の一作が引用されたくだりを抜き出すと、さらにぞわぞわとした気分になってくる。
一読して、『生きてゐる兵隊』と同一人物の書いた文章とは思えない。彼の本心がどこにあったかは別にして、戦争に加担する側に「転向」したと判断してもやむを得ない文章だろう。確かに、書きたいものが書けない辛さは、現代の僕たちには分からない。けれど、「こんなことしか書けなかったのだから」と平然としていられるものではないはずだ。
呉恵升は、彼が戦時下にこうした作品を多数書いていていたことに加え、その多くが戦後の作品集や単行本などに収録されていないことにも厳しい目を向けている。
反省なき「再転向」
敗戦直後から、石川達三は、新たに創刊された雑誌や、編集方針を一新して再刊された雑誌に精力的に寄稿する。さらに1945(昭和20)年12月には、『生きてゐる兵隊』が伏字のなくなったかたちで、中央公論社からあらためて刊行された。民主主義が叫ばれる中、石川達三は筆禍で弾圧を受けたヒーローとして脚光を浴びることになったわけだ。
彼が当時書いたものをみると、『似而非文化』(1945年10月14日付朝日新聞)で、戦中のすべてを当局の弾圧のせいにして平気でいるわけにはいかないとして「文化人の文化活動はやはりそのやうな反省から出発し、謙虚な質朴な態度をもって行はれるはずだ」と、一応は反省という言葉を用いてはいるが、自らの過去に立ち返った形跡はみられない。むしろ「なかったこと」にしようとしていたと言った方が正確だろう。
それを踏まえて読んでいくなら、「敗戦の根本理由が日本人の腐敗堕落であったと同じく、再建の困難も亦日本人の腐敗堕落である筈だ」「進駐連合軍司令官の絶対命令こそ日本再建のための唯一の希望であるのだ」(1945年10月1日毎日新聞『日本再建の為に)』といった言葉も妙に軽々しく、空疎に響く。
「自由には二つの種類がある」
社会の時流に乗った石川達三はその後、教育界が抱える問題をえぐった『人間の壁』、青年のエゴイズムをテーマにした『青春の蹉跌』などベストセラーを量産し、社会派作家として確たる地位を確立した。『青春の蹉跌』はのちに映画化されてショーケンと桃井かおりが出演し、話題を呼んだ作品でもある。
作品とは別に、石川達三が大きな注目を集めたのは、1975(昭和50)年から2年間、日本ペンクラブ会長を務めていた時の「二つの自由」に関する発言だ。自由には「一歩も譲れない自由と、秩序維持のために譲歩できる自由がある」と主張し、五木寛之や野坂昭如らの若手らと激しい論争となったのだ。
石川達三が、ポルノ作品を出す自由などを「譲歩できる自由」と考えているのはこの文章から理解できる。では、彼にとっての「譲歩できない自由」とはどんなものなのか。『生きてゐる兵隊』の作者としてなら分かるが、それ以降の戦時下の歩みをみると、どう考えていいのか迷ってしまう。
そもそも、かりに自由に二種類の自由があるとして、それは彼が言うほどはっきりと区分できるものなのか。「譲歩できる自由」だと思って権力に迎合したほんの小さな隙間から、知らぬ間に、最も大切な根幹まで突き崩されていってしまう。自由というのはそういう脆いものだと、戦争中に身をもって体験したのではなかったか。
1985(昭和60)年1月、石川達三は79才で死去した。当日の新聞をみると、「反骨・信念貫いた生涯 社会の不正に激しい怒り」といった見出しが躍っている。石川達三にしてみれば大いに満足だったに違いない。
でも今、僕はこんな論調の評伝だって、あってよかったんじゃないかと思っている。
『生きてゐる兵隊』が文学史に残る作品であることは揺るがない。そんな小説を書いた骨太の作家でさえ、自由を奪われれば弱い存在だったのだー。
参考文献
石川達三『生きてゐる兵隊』中公文庫
石川達三『徴用日記その他』幻戯書房
石川達三『石川達三作品集16 青春の蹉跌』新潮社
石川達三『経験的小説論』文藝春秋
河原理子『戦争と検閲』岩波新書
白石喜彦『石川達三の戦争文学』翰林書房
呉恵升『石川達三の文学』アーツアンドクラフツ
尾西康充『戦争を描くリアリズム』大月書店
花田俊典『軍隊を書くということ』学燈社
(國文学臨時増刊『発禁・近代文学誌』より)