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日本語空耳アワー ~歌詞とメロディのイントネーション

もう番組自体が終わっちゃいましたけど、『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」、面白かったですよね。大好きなコーナーでした。

で、あれは外国語が全く違う日本語に聞こえてしまうという例でしたが、いやいや、日本語の歌でも全く違う日本語に聞こえてしまって大笑いってこと、ありますよね?

僕は年寄りなので古い歌ばかりで申し訳ないですが、例えば太田裕美の『木綿のハンカチーフ』(作詞:松本隆、作曲:筒美京平、1975年)では、「都会で流行りの 指輪を送るよ」と言われて、「いいえ 星のダイヤも 海に眠る真珠も きっとあなたのキスほど きらめくはずないもの」と返すのですが、これが僕にはどうしても
いいえ 欲しいの ダイヤも 海に眠る真珠も
と聞こえて、当時「なんと強欲な女だ!」と本気で思いました。

これは「星」の「し」がメロディに乗ると長音の「しー」になってしまって、「星の」が「欲しいの」に聞こえてしまうというからくりです。

その他にも、イルカの『なごり雪』(作詞作曲:伊勢正三、1974年)の「なごり雪も降る時を知り」が
なごり雪も降る時 お尻
に、

あるいはキャンディーズの『微笑がえし』(作詞:阿木燿子、作曲:穂口雄右、1978年)の 「おかしくって涙が出そう」が
お菓子食って 涙が出そう
に聞こえてませんでしたか?

これは歌詞のイントネーションとメロディ及び譜割りが合っていないからなんですよね。

『微笑がえし』と似たようなところでは、BEGIN の『恋しくて』(作詞作曲:BEGIN、1990年)の冒頭の「恋しくて」が
小石食って
に聞こえます。

また、この歌には「好きなら好きと Say again 言えばよかった」というフレーズがあるのですが、この Say again が僕には「そやけん」(「だから」の意)に聞こえて、なんでここだけ突然四国/九州の方言なんだろう?と思っていました。
好きなら好きとそやけん言えばよかった

それから、空耳にはなってはいませんが、イントネーションの問題の例としては、ジローズの『戦争を知らない子どもたち』(作詞:北山修、作曲:杉田二郎、1970年)があります。

この歌の出だしの「戦争」はイントネーションが完全に裏返ってしまって、センが高くソウが低くなっています。それじゃあまるで浅草あさくさ浅草寺せんそうじじゃないですかw
浅草寺知らずに 僕らは育った

※ アクセントがおかしいという意味ですごいのは平尾昌晃・畑中葉子の『カナダからの手紙』(作詞:橋本淳、作曲:平尾昌晃、1978年)で、歌詞に出てくる英単語 Canada の全ての箇所でアクセントが裏返っているのですが、ここでは詳細は割愛します。

谷村新司のすばる(作詞作曲:谷村新司、1980年)においては、サビでの1回目の「我は行く」は良いのですが、2回目の「我は行く」ではイントネーションが裏返って、「我」のワよりもレのほうが音が高くなっています。

それって、大阪人が喧嘩を売る時に相手のことを指す「ワレ」(「なめとんか、ワレ! いてまうど、コラ」)になっていませんかw

関西人の谷村新司がどうしてこんな曲を作ってしまったのか不思議で仕方がありません。

関西弁の歌は実はたくさんあるのですが、やっぱりイントネーションとメロディを合わせるのが難しいのか、関西人が聴くと違和感ありまくりの作品も少なくありません。

大ヒットした BORO の『大阪で生まれた女』(作詞作曲:BORO、1979年)や上田正樹の『悲しい色やね』(作詞:康珍化、作曲:林哲司、1983年)もやっぱり大阪人にはちょっと辛い感じがあります。

前者は関西人の BORO が作っても、最初から最後まで大阪弁のイントネーションとメロディを合せるのは難しいということの証明だと思います。

そして、後者は作詞も作曲もまさに大御所による作品なんですが、やっぱり大阪弁をよく知らないと言うか、そんなことに頓着しないと言うか、そういう人による作品なのかなという感じがします。

この歌が詞先なのか曲先なのかは知りませんが、曲先の場合は作詞家が、詞先の場合には作曲家がイントネーションに敏感でないと、こういうことが起こるのだと思います。

ただし、たとえ作曲家がイントネーションを合わせる気があっても、詞先の場合、作詞家が1番と2番の歌詞のイントネーションを揃える配慮をしていなければ、1番ではおかしくないのに2番では裏返っていたりすることになりがちです。

イントネーションが違うと全然別の単語を連想してしまったりするんですよね。

『悲しい色やね』の歌詞の「泣いたらあかん」「逃げたらあかん」の「あかん」のメロディは、「あかん」ではなくて「おかん」(大阪弁のお母さん)のイントネーションになっています。
逃げたらおかん、逃げたら くちびるかんだけど

「大阪の海は 悲しい色やね」の「海」は、大阪弁では「海」ではなくて「うみ」の、「色」は「色」ではなくて「イボ」のイントネーションになっていますよね。
大阪の膿は悲しいイボやね
って、それ、なんやねん!

かと言って、メロディを全部大阪弁のアクセントに合わせてしまうと、めちゃくちゃいなたい、ダサダサの曲になってしまいます。難しいもんですね。

上田正樹は自ら作詞作曲もする人で、特にデビュー間もない頃は有山じゅんじ等と一緒に大阪弁のアクセントを見事にブルーノートに当てはめた名曲を次から次へと送り出していただけに、この曲をもらったときにはちょっと残念に思ったのではないかな、なんて想像してしまいました。

でも、最近では、特にラップっぽい歌などでは、韻を踏みながら、他の音にも聞こえたりする言葉を並べてダブル・ミーニング的な遊びをするような作品が結構出てきています。これは日本語の歌詞における新たな進化だと僕は思っています。

そういうことをわりと早くやりだしたのは桑田佳祐で、クワタバンドの『スキップ・ビート』(作詞作曲:桑田佳祐、1986年)の Skipped beat, skipped beat,… という歌詞が
スケベー、スケベー
に聞こえる(と言うか、聞こえるように歌っている)のは有名な話です(ま、遥か昔には Woman Called Yellow Z というロックの迷曲?もありましたが、それは自分で検索してみてくださいねw)

それにしても、世の中にはサザンオールスターズの名曲『いとしのエリー』(作詞作曲:桑田佳祐、1979年)の「無邪気に on my mind」という歌詞が
無邪気におっぱいぱい
に聞こえて仕方がないという人もいるくらいで、ま、空耳というのは単にその人の深層心理を反映しているだけのものなのかもしれませんw

皆さんも自らの煩悩に満ちた日本語空耳などあれば、コメント欄にてご紹介ください。

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