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ChatGPT は善か悪か?

ここのところずっと ChatGPT がもたらす光と影みたいなことが議論されている。僕は AI に詳しいわけでも何でもないけれど、自分の経験に照らしてちょっと思うところを書いてみようと思う。

僕は大阪の放送局に務めていた。本人の希望に反して入社から2年間は大阪の本社のテレビ営業セクションに、そして、その後 11年間は東京支社のテレビ営業セクションにいた(と言うか、いさせられた)。

入社 14年目に漸く本社のテレビ編成部に転勤したのだが、新しい部に着任してからすぐのときに、同僚に「みんなでもっと楽して仕事ができるように頑張ろう」と言われて驚いたのである。

そんなことを書くと、え? 楽するのが何がいけないの? と逆に驚かれるかもしれないが、僕がそれまで働いていたのは楽をしてはいけない環境であり、いけない時代であったのだ。

僕が営業局にいたときには、楽をすることは明らかに悪だった。営業マンは足で稼げ。スポンサーや代理店に足繁く通って情報を集めろ。彼らと徹底的につきあって仲良くなれ。楽をしようと考えてはいけない。仕事は先輩のやり方を見て、そこから盗め。──そういうのが先輩たちの教えだった。マニュアルなんかどこにもなかった。

それまでそういう環境にどっぷり浸かっていたから、だから、同僚の「みんなで楽をしよう」という表現に強い違和感を覚えたのである。

時はちょうどオフィスに PC が導入され始めたころで、同僚が言ったのもそういうことを踏まえたものだった。事実僕ら編成部員は PC の力を借りて書類作りとか集計とか他の部署への連絡などのルーティーン業務を徹底的に省力化、かつスピードアップし、部員みんなの仕事を、引いては社員全員の仕事を楽にして行こうとしていた。

それは何のためだったか? そして、それによって何がもたらされたか? と言えば、それは考える時間だった。面倒くさい書類作り等の仕事から解放されて、そこで出てきた時間で僕らは1週間のタイムテーブルをどのように改善すべきかを考え、資料を集めて分析し、議論し、そしてさまざまな準備を進めた。

同僚が言っていた「みんなで楽して仕事をしよう」というのはこういうことのためだったのか、と僕は自らの不明を恥じたのであった。

ChatGPT を巡る考え方も、この新旧の価値観の対立を反映している部分があると思う。ある人は ChatGPT を使いすぎると楽ばかりして人間がものを考えなくなると言い、ある人はこの便利な道具を使いこなして世の中をもっと快適なものにしようと言う。

要は楽をするということをどう捉えるかという問題なのだが、しかし、問題は楽をすること自体ではなく、何のために楽をするかなのである。

例えば ChatGPT の弊害を語る人は、小学校の読書感想文の宿題を ChatGPT に書かせて提出する子供が出てくるだろう、そういう子はものを考えない大人に育つ、みたいなことを言う。

例えば ChatGPT のメリットを述べる人は、論文を書いたり英訳したりするときに ChatGPT に草稿を書かせてそこに自分で手を入れて完成して行くというスタイルにすると圧倒的な時間節約になると言う。

どちらもその通りだ。しかし、両者には違いがある。前者は最終的な目的のために ChatGPT を使おうとしており、後者は最終的な目的を達成するまでの手段のひとつとして ChatGPT を活用しようとしているのである。

僕らが子供だったころには ChatGPT はもちろん PC もなかったが、そんな昔でも読書感想文を自分で書かずに他人の書いたものを写したり、あるいは誰かに書いてもらって提出する子供はいたのである。そこの部分は基本的に変わっていない。他人の手を借りる(あるいは盗む)か AI に書かせるかという違いだけである。

大事なことは、子供たちに、読書感想文というものは自分の感想を書くものであって、AI に書かせたんじゃ感想文にはならない、そういう ChatGPT の使い方は良くない、と教えることではないだろうか? 昔の子供に教えたのと同じように。

一方で PC やインターネット、AI などの登場によって、僕らの仕事や暮らしは飛躍的に楽になってきている。

僕は小学校低学年のころ漫画を描くのが好きで、クラスでもかなり巧いほうで、それで将来は漫画家になりたいと思っていた。ところが、漫画家になるにはどうしたら良いのか、雑誌に載るような漫画を描くにはどのような紙やペンやインクを買ってくれば良いのか、そして、そんな道具はどこに行けばいくらぐらいで売っているのか、そういうことがさっぱり分からなかった。

当時は分からないことがあると誰かに訊くしかなかったが、訊かれた人が知っているとは限らないし、知っている誰かを探し出すのは至難の業だった。最悪の場合は嘘を教えられてしまう可能性もあったし、「子供はそんなこと知らなくていい」みたいなニベもない答えが返ってくることもあった。

そうなると自分で調べるしかなかったのだが、何しろ Google もないのである。家にある百科事典(そう、子供のいる家には大抵百科事典が買い揃えてあった)で引くか、図書館に行くしかなかった。しかし、百科事典に載っているかどうかは分からない(確かに「マンガの書き方」という見出しはなかった)し、そもそも書物に載っている情報はその書物が書かれた時代の情報で、どんどん古くなって行くのである。

そういうことのせいだと言うつもりはないが、結局そうこうするうちに僕は漫画家になる夢を断念してしまったのである。

そんな風にならないために、子供たちが最新技術の助けを借りて漫画の描き方を調べるのであれば、それはとても素敵なことだと僕は思うのである。ただし、AI に描かせた漫画を出版社に持ち込んではいけない(今の技術では AI には連続して同じ顔を描けないので無理らしいが)──そういう違いではないだろうか?

ChatGPT の素晴らしい能力は何かの手段としてどんどん使うべきなのだが、それを最終目的に使ってはいけないということなのではないかな。

そういうことを子供たちに教えて行くのは口で言うほど簡単なことではないだろう。うん、それは分かっている。いや、それどころか大人たち自身がそんなズルをするケースが出てくるだろうから、もっと大変だ。

でも、それは地道に、アナログに、誰かが AI の正しい使い方をみんなに教えて行くしかないのである。言うまでもないが、弊害があるからと ChatGPT の使用を全面禁止するのは間違いである。

どのように教えれば良いかをまずは ChatGPT に訊いてみるのも良いかもしれない。でも、その答えを見て考えるのは僕ら一人ひとりの仕事である。

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