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敬語の稽古

若い人たちが敬語を使えなくなった──これは事実でしょう。

ただ、それはここ最近の傾向ではなく、多分ここ何十年も言われていることです。

一方で、若者たちの側でも、やはり会話によって人間関係を円滑に保って行きたいという思いがあるのは確かであって、それが彼ら独特の、物事を曖昧に表現したり断定を避けたりする言い回しに繋がっているのです。

若者独特の表現ついては多くの人が指摘しているので、ここではあまり詳しく書く気はありませんが、例えばむやみに「とか」をつけたり(最近では「だったりとか」になります)、「そうじゃなくて」と言わずに「て言うか」と返したり(反論ではなく言い換えだと言う感じ)、「~のほうでよろしかったでしょうか」みたいなコンビニ敬語になったりしています。

今回私が言いたいのは、敬語が廃れるのは人を敬う気持ちがなくなったからではない、ということです。いや、そもそも人を尊敬するから敬語を使うのではない、ということです。敬語はひとえに人間関係を円滑に運営するための技術なのです。

若い人たちの中に、もし「あんな奴、尊敬できないから敬語なんか使う必要がない」「あいつは嫌いだから敬語なんか使いたくない」と思っている人がいたら、私は「そんな人に対しては是非敬語を使っておきなさい」と言いたいのです。

考えてもみてください。もしも相手が飛び抜けて頭脳明晰で、聖人君主みたいな人格者であったなら、あなたが多少言い方を間違えたり不適切/不正確な表現をしたりしたとしても、そんなに揉めることはありません。

もしも、相手があなたと非常に仲の良い、長いつきあいの、非常に相性の良い人であったなら、たとえ一旦行き違いがあっても、「いや、そうじゃなくで俺の言いたかったのは…」「あ、なーんだ。そうかそうか。分かった」みたいなやりとりで済むはずです。

それが、相手が理解力に乏しく、性格が捻じ曲がっていて、あなたと波長が合わない人であった場合だと、すぐに相手は誤解して怒ったり拗ねたりして、「最初から騙すつもりだったんだろう」だの「じゃあ、どうして先に俺に言わない?」だの「知ってるけど公式には聞いてない」だのと、ややこしいことを言い出すのです。

そう、敬語というのは尊敬できる相手に使うものではなく、気をつけるべき相手に使うものなのです。

年齢や役職が上だというだけで偉そうにする(つまりおよそ尊敬できない)奴ほど、自分に対して敬語を使わなかったことを根に持ったりするのです。逆にそんな方々には、適当に敬語を使って表面を整えてさえおけば結構ご機嫌麗しかったりするものです。

たとえ心の中で軽蔑しながら敬語を使われていても全く見抜けない方々もたくさんおられます。逆に、人格者であれば、たとえ相手がうわべでは敬語を使いながら心の中では軽蔑しているなと気づいても、そんなことだけで大騒ぎしたりはしないものです。

礼儀というものは心から入るものではなく形から入るものだと私は思っています。心は後からついて来るものです。

心が後からついて来るというのは、「敬語を使っていれば後から自然に尊敬の気持ちが生まれてくる」と言うのではありません。敬語を使う習慣がつけば、相手が嫌な奴であっても、むやみにぞんざいな態度を取って不用意に刺激したりすることがなくなり、そのことによって相手の心も自分の心も落ち着いてくる──それが敬語の効用だと私は思っています。

敬語を使うメリットはその程度のものです。でも、使わないデメリットに比べれば遥かに大きいと言えるでしょう。「気をつけるべき」人を不用意に刺激すると痛い目に遭いますから。

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