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とんじる祭。祭りのあと

とんじる祭が終わった。

改めて、この祭に作品を提供する側として参加できたことを幸せに思う。二番手というのを任されたのも、今日までそこまで意識していなかったが、正直、やりやすい場所だなと思っていた程度で、その役割を意図せずして果たせたのではないかと思うとともに、2月の2回目では、もっと上手くバントを転がせるのではないかと思う。

こんな祭企画でも思うところはあって、芸術としての演劇とは何かということ。

演劇は本物には勝てないのだろうか?

絵画は写真に勝てないのか、と問われれば、ほとんどの人が「ノー」と答えると思う。
絵画は使う画材も技術も様々で、画家が見た風景をその人の感性のフィルターを通して我々に見せてくれる。そして我々も、その人生経験や、それぞれが持つ感性のフィルターで、1つの絵画から様々な風景を見ることができる。これこそ、まさに芸術、といった感じ。時には自分の思い出に浸ることもできるし、妄想を膨らまてストーリーを生み出すこともできる。

演劇も同じだと僕は思う。
同じ演劇を観ても、例えば感情移入する登場人物も観客によって様々で、絵画に比べると自己主張が強い(ここは笑うところ、みたいな)性格はあるだろうけど、その強弱のさじ加減は作り手に託されていて、観客もどこまで受け取るかは実は自由。

絵画でいう画家1人の感性のフィルターは、演劇の場合はまず脚本家がいて、演出家がいて、俳優がいて、また複雑になってくるのではないかと思う。
特に俳優というフィルターは、写真と絵画の関係以上に生々しくて、一歩間違えば「それ本人がやればよくない?」問題が発生してくる。

つまり、警察官役は警察官がやるのが一番いいのではないか、という問題だ。

なぜ警察官の経験が無い俳優が警察官を演じるのか、そこに意味が無ければ、観客は何を受け取ればいいのか分からなくなってしまう。

とはいえ、実際はそんな大袈裟な事態はほとんど起きてなくて、「騙される」観客が多いのが現状(学生演劇や小劇場のアマチュア演劇において)だと思う。

演技なんて幼稚園児にもできるわけで、桃太郎の役を息子がやれば、桃太郎の役をやる息子の姿を楽しめる。そもそも絵を描くのに技術はいらない。自分が表現したいものに限界を感じた時に技術は必要になってきて、その技術を求める動機に、新たに意味が付け加えられていく。

僕はたぶんまだ自分のためにしか俳優として舞台に立てていない。あるいはその作品のためにしか。その評価をしてくれる人もいなくて、もがいているところなのだ。この4年近くの振る舞いに、一点の悔いを感じている。

しかし、まだチャンスはある。

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