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"問題"とは何か、私の解釈

『それは"問題"ではなく、"課題"』

今回は"問題"というものに対する私のスタンスを
可能な限り、実態に近い状態で明示することを試みる。

当然だけど、これはあくまで"私"の暫定的な価値観であり、周囲に強要したいものでは全くない。
一つの価値観の表現として。

まず、この手のテーマだと
"問題"という言葉の定義から始める必要がある気がするんだけど、
その前に、皆さんは上司や先輩に、
本chapterの表題『』のようなことを言われた経験はないだろうか。

私は結構ある。
そして毎度、うるせえって思う。
あなたが納得しているだけの"定義"を、そんなにも簡単に、私の"解釈"にまで影響しようとしないでくれいっ

言葉はとっても重要。
本来の意味があり、時代に合わせた若干の変容・更新があり、
それに伴い、用途も大きく変わってくるから。

だけど、私は思うのだ。

みんな、
・具体的なもの
・確からしいもの
・正解っぽいもの
に縛られすぎてはいないかな?って

そこにある"曖昧さ"を、
仕事で習ったのかな、"合理性らしきもの"でしか捉えようとしないその姿勢に
私はびんびんに違和感を覚える。

-この世は"あいまい"だらけなのに-

あ、つまり(?)、
本chapterで伝えたかったのは

いわゆる広辞苑的な意味と一致していなくても
"問題"の意味はなんとなくみんな分かるもんね
きっとそれぞれで、若干もしくは大幅に異なると思うけど、
なんとなーくの大枠の認識は一緒だよね、それでいいよね!

ってこと。

毎度本題までの道のりが長いんだけど、私にとっては大事な寄り道な気がするんだよね
いつも迷子に付き合ってくれてありがとう

私の捉える"曖昧さ"については、また別の機会で触れるとしよう

問題とは、誰かが問題意識を感じる"何か"

前chapterを経て、
私なりに、暫定的に、一定しっくりくる"問題"の定義はこれ↑

大衆が問題ではないと主張している事象でも、私が問題と感じれば、それは私にとっては"問題"だし、
大衆が問題だと定義する事象でも、私が問題じゃないと感じれば、それは"問題"じゃない。

それ以上でも、それ以下でもない。

どう?
なんとなくは一緒かな
てか、当たり前か

その上で、はやくも
今回の、一つの結論を先に。

私は、"問題"から、できるだけ距離をとった"傍観者"でありたい。
あろうとしている。

どういうことかというと、
基本的には"問題"という概念と、
当事者として、真っ向から対峙したくない
ということ。

どうしても当事者であると、歪む。屈折する。
その可能性が非常に高くなる。

例えば、みんなの大切な人が何かの被害者にあたるとき(今回はこの状況におけるあなたも"当事者"に包含しよう)、
その被害の程度にもよるけど、嫌悪する人が多いんじゃないかな。
少なくとも、冷静ではいることが難しいことはあるよね

当事者である私(あなた)の主観で捉えた"問題"は、
問題の対象
つまり、ある種"敵のようなもの"を創り出す。
そう、錯覚してしまう。
そして、一度"敵"と解釈してしまうと、なかなかそこから脱することができなくなる。
対立する意見を許容できなくなってしまう。
まるで、対立する意見が"絶対的な悪"かのように。

これが、当事者であることの怖さ。恐ろしさ。
と私は考える。

ブルース・リーの言葉を、ここで。

※元々は宮本武蔵の『五輪書』が影響してるみたい。武蔵すごっ

私は、いつだって
水でありたいんだ。

そのために、傍観者である必要があるんだ、と。

"問題"として生まれてきたものは、この世に一つとして、ない

性善説だって言われるかもしれないけど、
個人的にはそうではないんだよな

私のこの、暫定的な主張には、
自身の力不足で認識が及んでいないだけで、要素の不十分さは否めないけど、
誤解を恐れずに、敢えて強引なひと括りで主張してみる。

この世にはいろんな"問題"があるけど、多くの問題は
誰かの、いつかの"純粋な願い"の副作用によるものであると感じる。

直接的なものもあれば、
バタフライエフェクトばりに、すごーく間接的で遠いものも含めて。
まぁ、私がそう解釈したいだけなのかもしれないけど。

仮に、戦争が"問題"だとして、
どうやって生まれたか。

戦争を始める国々も、
自国の民たちを、暮らしを守りたいという願いから
"敵"を創り出す。
本来は、広い意味での"仲間"を想った純粋な願いだったはずなのに。

私が思うに
純粋な願いには、多面的な想像力が不可欠な気がしていて、

コトを複雑にしているのが、
ある主体における当事者の"純粋な願い"だけに執着している時点では、"副作用(になり得る)の存在"に気付けないということ。
基本的に、その"副作用"とやらは
未来の、立場の弱いものたちが被ることになる。


いやー、こんなことを考えているから、私はいつも動けない。
動いたら、何らかの問題に、無意識的に加害側として関与してしまう恐れがあるから。

だから、最近はこうやって
noteやPodcastでもがいてるんだな。理解。

"傍観者"だから、"いい方向"へ寄与できる

先ほど、私は傍観者でありたいと言った。
理由は先述の通りだが、
ただ単に"傍観者でありたい"訳じゃない。

傍観者である目的は、傍観者だからできることがたくさんあると思うから。
"傍観者"は、何も"無関心"や"無関係"と同義ではない。

"傍観者"として、
一定共感できる"問題"に、主体的に関わりにいき
"仲介者"と成る。
"仲介者"として、
"問題"を、一歩でも"いい方向"へと導きたい。導けたらいいな、と

どうだろう〜〜、ちょっとは伝わったかな
伝わるといいな

いやー、いつ見ても美しいなこれ

実は今回、本テーマを扱うきっかけとなったのが、
私がPodcastで間違いを犯してしまったから。

私の、尊敬する大好きな仲間が、それを教えてくれた。

伝えたかったのは、このnoteのような内容だったんだけど(このnoteもうまく表現できてないかも泣)、
伝え方が下手くそな私は、

テーマの扱い方
話の構成
例えの用法
言葉のチョイス

全部をちょっとずつ間違って、本来伝えたかったことと大きく乖離してしまった。
不快感を与えてしまった皆さん、ごめんなさい。

戒めの意を込めて、そのepisodeをここに貼ります。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/tatsu01/episodes/solo-e2kq0pu


今後も、どんな意見であっても、
もし感じたことがあるなら
是非、勇気を持って
私本人に伝えてくれたら嬉しいです。

みんなとたくさん話したい。
正解はない。

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