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サダナという黙想会に誘われてはじめて参加してみた

今日は、大学院で知り合った方から誘っていただいてサダナという黙想会に参加してきた。瞑想じゃなくて黙想というところから、アウェイな感じが漂う。私は、黙想という言葉を使わない。

それでも、参加したのは、知人に誘われたということもあるし、心を整えたいという気持ちもあったから。最近はニュースを見聞きしては、心がざわつく。悲しかったり、胸が痛んだり、途方に暮れたりしている。

結論から言うと、参加してとてもよかった。9時から16時まで、ゆったりとした時間の流れだったにもかかわらず、あっという間に終わってしまった。

サダナとは、サイトによれば「神への道」という意味らしい。ごく簡単には、「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」と説明されている。イグナチオの霊性と、心理学と東洋の瞑想を取り入れた祈り方だという。

そこにも興味をひかれた。イグナチオの霊性がどのようなものか知らないと言ったら、大学は失望するだろうけれど、四ツ谷にあるイグナチオ教会の隣の大学で、心理学を専攻していた。そして、東洋の瞑想といえば、一番長く通ったのは、高輪にある高野山東京別院で毎週土曜日に開かれている阿字観という瞑想会に、40代後半の数年は通っただろうか。坐禅会には、今でもちょいちょい出かける。北鎌倉に出向くのが最近のお気に入りだ。

で、キリスト教と仏教的な行法がミックスされるとどうなるのか? 

今日は、呼吸法やマインドフルネスのボディチェックのような基本からスタートした。キリスト教的な色合いは、後半にでてきた。

それは、呼吸に合わせて祈りを念じる2つのプログラム。最初に、レジュメに印刷された4つの詩のなかから好きなものを選んで念じる。私は「平和を願う祈り」を選んだ。クリスチャンではない私にも取り組みやすい。少々とまどったのは、「イエスの御名の祈り」。信仰がないから、心を込めて念じることができない。どうしたものかと悶々としつつ終わった。 

16時にプログラムが終わると、自由参加のミサがあり、参加した。作法はまったくわからなかったが、新型コロナウィルスや戦争のせいで亡くなった方々や今も苦しむ方々への祈りに心を合わせた。

自分のからだにていねいに向き合い、祈る静かな時間は、あたたかく優しさが感じられ、本当心地よかった。誘ってくださった方に感謝。

入門プログラムは3日間で構成されていて、今日は「”からだ”の日」とか。2日目はイマジネーションを扱い、3日目はからだやイマジネーションの範疇に収まらない内容と聞いて、がぜん興味をひかれた。5月、6月の日程を確認して、早速申し込んだ。今から楽しみだ。

(おまけ)
黙想と瞑想の違いをわかりやすく説明しているnoteがあったので、参考までに。

<黙想>目を閉じて静かに自らの内面に深く沈思し、
故人や神や自分の信じる信仰における絶対的な存在と触れ合い、故人への 思いや人生、生きることの意味について思いをめぐらす行為である。

<瞑想>何かに心を集中させること。単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありあ りと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。

<黙祷><黙想><瞑想>の違い ざうるすさんのnote (2020年8月8日)