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【WBC・侍ジャパンメンバーのあの頃】不合格、甲子園、骨折、退学・浪人、大学代表。経験のすべてが〝全身全霊〞で生きる伊藤大海の血肉となった

WBCことワールド・ベースボール・クラシックで日本一に輝いた侍ジャパン。触発されて野球熱が再加熱した方もいたことでしょう。
これから侍ジャパンの選手を試合で見たり、一球速報を追ったりする際に、アマ時代など選手のバックボーンを知っていると、よりおもしろく、より選手に愛着を持てるはず!
ということで、そんな選手の背景がわかる『野球太郎』の過去記事を公開します。

今回は伊藤大海(日本ハム)です。紆余曲折ばかりの一方で、練習や試合、自身の理論などを配信した“いまどき”感あるアマ時代。すべての経験がドラフト1位、侍ジャパンへとつながりました。伊藤投手を作り上げたすべてをご覧ください。
(取材・文=長壁明)
※所属チームなどは当時のそのままです
『野球太郎No.037 2020ドラフト総決算号』より

退学・浪人・再入学から駆け上った代表常連右腕

17年越しの大願成就
 2020年10月26日。伊藤大海本人はもちろん、球団、そして北海道の野球ファンにとって歴史的な1日となった。「北海道日本ハムファイターズ」が誕生して17年(2004年に札幌ドームを本拠地としてからは16年)、初めて北海道ゆかりのドラフト1位指名選手が誕生した。2006年に駒大苫小牧高・田中将大(ヤンキース)を1位入札し、抽選で外してから14年。当時小学3年生だった野球少年は現在23歳。それだけの歳月が流れた。
「子どもの頃からファイターズが好きで、ダルビッシュ(有)投手(カブス)に憧れていました。北海道で生まれ育った人間として北海道で頑張れることがとても嬉しいです」
 満面の笑顔に安堵感を滲ませながら苫小牧駒大で会見に臨んだ伊藤は普段通りの落ち着いた口調だった。すでに期待や責任の大きさを感じているかのように。
 〝地元だから〞は大切な要素かもしれないが、球団として、どうしてもほしい投手なのはドラフトの3日前、10月23日に1位指名を公表したことでも明らか。この公表を受け、北海道のファンは喜び、祈った。「どうか、このままファイターズが交渉権を……」と。そして、北海道の大学から史上初のドラフト1位指名選手が現実となる、ドラフト会議を迎える高揚感と贅沢を静かにかみしめた。
 個人的にも地上波で全国生中継される時間帯に、北海道の学生が指名されたことがうれしかった。テレビに映る伊藤がカッコよくて、ビックリして、誇らしかった。

負けん気を支えに
 北海道茅部郡鹿部町。町内に小学校1校、中学校1校、高校はない。北海道南部、函館市に隣接する太平洋沿岸、人口約3800人の自然豊かな港町。温泉も多く、北海道では雪の少ない温暖な気候もあり、野球が盛んな町で伊藤は祖父の代から続く漁業従事者の家庭の長男として生まれ育った。3歳上の姉、小学6年生の弟の三きょうだい。ドラフト当日に放送されたテレビ番組での特集を見たファンも多いだろう。函館有斗高(現函大有斗高)から1987年のドラフト1位で大洋に入団し、横浜、近鉄で活躍した故・盛田幸妃投手のように鹿部中を卒業後、町外の強豪校で活躍し、甲子園、大学、社会人でも活躍した選手も多い。
 ダルビッシュが日本ハム入りした2005年、伊藤は鹿部小2年生で町の少年野球チーム、鹿部クラップーズの一員に加わり野球人生をスタートさせた。
「幼なじみに凄いヤツがいて、〝エース〞ではありませんでした。その悔しさも頑張ることができた理由の一つです」
 足と負けん気は誰にも負けなかった、という伊藤。小学3年生の頃に足を生かそうと自ら左打ちに転向し、打って走って、時々投げて少年時代を過ごした。いつの頃からか「プロになる」と心に決め、中学では前出の〝凄いヤツ〞こと渡辺幹理(北海高→中央大)と函館東シニアでプレーをする。
「中学でも(渡辺)幹理には叶わなかったです。幹理の連投を避けるために僕が投げる、そんな感じで外野手が中心でした」
 週末の活動が中心となるクラブチームで伊藤は平日の自主練習にひたむきに取り組んだ。時には父を練習相手に黙々と野球に取り組み、熱く野球と向き合った伊藤はキャプテンとして活躍する。
 その姿を見ていたのが駒大苫小牧高・茶木圭介部長(現同校女子硬式野球部監督)だ。
「中学では主に外野手でしたが、全身バネで躍動感のある動きに目を奪われました」(茶木部長)

甲子園で見せた球質の片鱗
 茶木部長曰く「口数が少なくて、自己表現が得意ではない」伊藤だが、中学の大会を終え駒大苫小牧高進学までの半年間、がむしゃらに走り込み自主練習に励んだ。原動力は高校卒業時にプロへ行く、という胸に秘めた決意だった。
 1年秋には背番号15の控え投手としてベンチ入りして、大会に入ると主戦として6試合に登板、特に準決勝、決勝ではチームを救う好救援で胴上げ投手となった。当時は173センチ67キロ、下半身主導のフォームからテンポよくストレートを投げ込み、変化球との緩急で勝負するタイプ。もっとも当時から気持ちの強さは別格で2年生捕手だった新山敬太(苫小牧駒大でも捕手)は「1年生とは思えないメンタル」と評している。伸び盛りの1年生右腕は、秋季大会から1カ月後の明治神宮大会では優勝した沖縄尚学高を相手に最速137キロを計測、8回途中までの粘投で自信をつけ、厳冬期の過酷な練習にも耐えた。
 「時間無制限で練習ができたのは彼らの時代が最後かなぁ」と駒大苫小牧高・佐々木孝介監督が苦笑まじりに話したことがある。部員の気質と完全下校時刻が設定されるなど、練習環境の変化について話題となった時だ。
 「僕にとって野球の楽しさは死にものぐるいで、全身全霊で取り組んで初めて味わえるもの」と話す伊藤にとって当時の駒大苫小牧高は最高の環境で、甲子園を見据えた1年冬の練習は壮絶を極めた。
 その取り組みはセンバツで結実する。創成館高を相手に3安打完封。冬のトレーニングで体も大きく厚くなり、現在、伊藤のセールスポイントである〝球質〞の片鱗を大舞台で見せていた。

全身全霊を貫いて
 いまとなっては必然かもしれないが、壮絶なトレーニングと甲子園完封の2年生エースへの重圧は、その後の伊藤を苦しめた。2年夏の新チーム結成後には右ヒジを疲労骨折してしまうが、皮肉にもそのケガが伊藤の運動能力と卓越した野球センスを見せつけることになる。復帰した2年秋は背番号8、1番・中堅手として本塁打を放ち、圧倒的な走力も見せる。そして、熱い気持ちを抑え切れずにマウンドにも立つ。敗戦の悔しさを胸にさらに壮絶な冬を経て3年春はエースで中軸、主将となった。
 3年夏の1番打者は1年後輩の若林楽人(駒澤大→西武ドラフト4位)。同期には亜細亜大で主将を務めた安田大将(北海道ガス)や他大学で主将を務めた選手が多い中でもエースの伊藤が主将だった。3年夏は準々決勝で北海高に延長13回、178球の熱投も及ばず2対3で敗れ、高校野球を終えた。幼なじみの渡辺は北海高の背番号1、先発投手として投げ合い、4回53球で試合を作り降板、息詰る投手戦を見守った。北海高の校歌が流れる中、顔を上げて、真っすぐ前を見つめ、球場を去るまで毅然とした伊藤の姿が印象的だった。
 高校卒業から半年後、進学した駒澤大を中退し北海道へ戻り、苫小牧駒大への再入学を決意する。
 再入学までの半年間の〝浪人生活〞、入学後も1年間公式戦に出場できないことを踏まえた上で4年後のプロ入りへデザインが描けたのだろうか。このあたりの経緯、理由などは誤解もあるかもしれないが、確かなことは東京での半年間を重要かつ必要不可欠な時間だったと位置づけていることだ。

野球人生の転換点
「東京ではレベルの違いに圧倒されました。ベンチ入り、登板機会もいただきましたが、このまま埋もれてしまう怖さもありました」
 こう認めた上で続ける。
「東京で得たいいイメージをそのままに、体もピッチングもイチから構築しようと思いました」
 その〝いいイメージ〞とは何か。伊藤曰く「かかと体重」だという。左足を上げ、体重移動をする際に軸足(右足)の母趾球を意識していた伊藤だが、ある大学OBのアドバイスで重心を変えてみると一気に球速が上がった。同時に高校時代から悩んでいたインステップするクセも解消する。
「それまで140キロ出るかどうかのストレートが翌週のオープン戦でいきなり147、8キロが出ました」
 この事実は日々全身全霊、突き詰めて野球に取り組んできた伊藤にとって衝撃だった。いまのままでは厳しいのではないか、もっと自分と向き合う時間が必要なのではないか、と。中退の理由は一言で説明できるものではないだろう。しかし、OBの一言で見違えるストレートを投げられた。その意味を追求しようと考えたところに伊藤らしさがある。いままでの取り組みが違っていたことへの複雑な感覚もあったのだろう。
 ちなみに伊藤の記憶では人生を大きく変えたOBとはその時、一度会っただけだそうだ。

剛腕は冬育つ
 高校卒業して1年後、2017年春に苫小牧駒大1年生となってから出場解禁となった2年春季リーグ戦の快投、神宮をどよめかせた2018年大学選手権での快投、2018年、2019年の侍ジャパン大学代表入り……SNSでの発信、ユーチューブチャンネル開設も評判となり多くの野球ファンに知られる存在となった伊藤の野球人生。受け止め方はそれぞれだが、少年時代から一切ブレることなく野球に〝全身全霊〞で打ち込んできたからこそ、現在がある。
 大学OBの一言で球速がアップしたのも、それだけの土台があったから。苫小牧駒大への再入学に周囲が尽力したのも伊藤の存在感、練習への取り組みを知っているから。伊藤自身も大学の全体練習後、毎日のように時間をかけて母校へ行き、現役部員も驚く練習量を自らに課してきた。
 2年連続で選出された侍ジャパン大学代表では強いストレートを武器にクローザーとして活躍。その印象が強いためかクローザー候補として名が挙がる。
 「重要な場面で登板し、一気に力を爆発させることは自分に向いているかも」と以前話していた伊藤だが、ドラフト指名後には「どんな場面でも任せられる存在になりたい」と遠慮がちに話していた。プロ野球選手になる、と誓い目指してきた世界が甘いはずがない。リスペクトを胸に、より厳しい冬の練習に取り組んでいる。
 「いままで以上に高いレベルで野球をやるのだから、喜んでいるヒマはない」
 そんな伊藤の落ち着いた声が聞こえてきそうだ。

【column】
白井康勝元監督も納得の開花
 日本ハムが北海道にやってきた2004年以降、地域密着を旗印に広い北海道各地を飛び回り、野球教室など野球少年、少女とのふれあいも大切に、球団スタッフ、選手たちは「君たちの中からファイターズで活躍する選手が誕生してほしい」とメッセージを発信してきた。
 今年は伊藤に続き5位で根本悠楓(苫小牧中央高)、6位で今川優馬(JFE東日本)と北海道出身選手3人を指名したことでもファンを喜ばせた。
 伊藤、根本を担当し、東海大北海道出身の今川を大学時代まで追ってきた白井康勝スカウトは2010年までファイターズジュニアの監督。小学6年生だった伊藤は白井監督率いる2009年度のファイターズジュニアに選ばれなかったが、その悔しさを大きな力に変え、高校、大学と〝白井元監督〞の前で何度も成長した姿を見せ「ファイターズに入団してください」と交渉される投手となった。

伊藤 大海(いとう・ひろみ)
身長176cm/体重82kg/右投左打
1997年8月31日生まれ/北海道茅部郡鹿部町出身/投手

中学 函館東シニア
高校 駒大苫小牧高
大学 苫小牧駒大

★ターニングポイント・苫小牧駒大★
 自分自身と向き合い、不安と孤独とも戦った半年間の“浪人期間”、再入学後、試合に出られない1年間で磨き上げた体、野球観が現在へつながっている。さらに毎年“厳しい北海道の冬”を乗り越えるたび大きくなった。

★こんな選手★
 最速156キロ、大学2、3年時の侍ジャパン大学代表ではクローザー。ストレートの強さにタテ横のスライダー、カットボール、ツーシームなど多彩な変化球を操る。気持ちの強さも持ち味で中学、高校、大学で主将を務めた。

★プロでこんな選手に★
新球場のエースへ

 体つき、身のこなし、走力などは往年の桑田真澄(元巨人ほか)を想起させる。多彩な変化球と守備力、無尽蔵のスタミナで先発ローテーションの柱へ。「大海が投げるから観に行く」。そんな2023年開場予定の新球場のエースに。

★ここを売り込め!★
チームに革命を

 先発ローテーション、クローザー云々ではなくブレずにひたむきに全身全霊で野球に取り組む姿は2年連続Bクラスに沈んだチームに必要不可欠だ。先輩を絶句させるほどの取り組みでチームに強烈な風を吹き込んでほしい。

(取材・文=長壁明)
『野球太郎No.037 2020ドラフト総決算号』で初出掲載した記事です。