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雄平(元ヤクルト)ドラフト答え合わせインタビュー公開!【前編】2つ同時は僕には無理です。野手でやることは考えてなかったので。

絶賛発売中の『別冊野球太郎ドラフト答え合わせ1998-2022〈増補改定・完全保存版〉』では、NPB現役から離れた6名のインタビューを行いました。
嶋基宏(元楽天、ヤクルト)、坂口智隆(元近鉄、オリックス、ヤクルト)、内海哲也(元巨人、西武)
白濱裕太(元広島)、寺島成輝(元ヤクルト)、吉持亮汰(元楽天)
アマチュア時代から取り上げてきたからこそできる、内容の濃い、プロ生活を振り返る「ドラフト答え合わせインタビュー」ができました。
が、それ以前にも一度同じ趣旨のインタビューを『野球太郎No.041』でも元ヤクルト、現在は楽天の1軍打撃コーチを務める雄平さんに行っていました。
せっかくの機会ですので、本誌に掲載した記事を「増補改訂」したほぼ全文バージョンで公開しちゃいます!
【後編はここをクリックしてください】
(取材・文=菊地高弘)

●2002年ドラフト・高校生の目玉

――19年間の現役生活、お疲れ様でした。プロ入り前に描いたプロ野球生活と、実際のプロ野球生活はギャップがありましたか?
雄平
 すごくギャップがありますね。ピッチャーで入団して、長くプレーしたいとは考えていましたけど、野手に転向することはまったく考えていませんでしたから。
――雄平さんは高校時代から投手へのこだわりを口にしていましたものね。
雄平
 そうですね、昔からバッティングも大好きなんですけど。僕は野球の中でピッチングが一番うまくできなかったんです。ドラフト1位という結果で、高く評価していただいたんですけど、僕の中では「もっとできるのに」という思いがすごいあった。それが悔しくて、ピッチャーをやっていたようなものですから。
――と言いますと?
雄平
 うまくできないからこそ極めたい。うまくいかずに悔しくて、何とかできるようになろうと努力していました。いつか自分のイメージした通りのプレーをしたい、と強い思いがあって、ピッチャーにこだわりがありましたね。
――それはプロ入り後の話じゃなく、ドラフトにかかるまでの話でしょうか。
雄平
 高校の時からですね。正直バッティングの方が得意ではあったんです。
――特に何も教わらなくても、バッティングしたら打てちゃった、というような天才的な……。
雄平
 そんなことはないです(笑)。指導していただいたことが、イメージにより近く表現しやすかったのはバッティングでした。ただ、ピッチングの方がなかなかうまくできないことが、逆にやりがいでした。
――投球では、以前にうかがった時にも、中学時代からコントロールで苦労された話をしたり、コントロールに苦しんでいた印象です。
雄平
 それはずっとです。小学生の頃が一番よくなかったですから。ボール自体はその地域では速い方でしたけど。中学でも常に悩みながら投げていました。周りには、総合的にもっとすごいピッチャーもいましたし。
――中学時代の雄平さんは緑東シニアのエースで、瀬谷シニアのエースの泉正義さん(元ヤクルト)とのライバル関係が有名でした。最近、泉さんに取材する機会があったのですが、雄平さんの名前が何度も出てきて、雄平さんのことを尊敬してて、「本当にいい人だ」と話をされていました。
雄平
 まさに先ほどの「自分よりもすごかった」というのが泉です。泉のように自分よりボールが速くて、すごいピッチャーが同じ神奈川にいたのは大きかったです。シニアの全国大会の決勝戦でも負けましたし、ずっとかなわない存在でした。彼を上回りたいと思って、ずっとやってきましたから。近いところに、僕よりもレベルが上の人いいライバルがいて、本当によかったです。

●「ドラフト候補」の本音

――高校進学するにあたって、バッターとして、ピッチャーとして、いろいろと評価され、勧誘があった中で、ピッチャーとして誘われた東北高校に入学しました。
雄平
 ピッチャーとして評価してもらえたことが大きいです。好きなことができて、楽しく野球ができたほうがいいと思っていたので。あと、2つ上の先輩がプロに3人(後藤伸也、渡辺雅弘[元横浜]、加藤暁彦[元ダイエー])、入ったんですけど、みなさんが出ている試合を見に行った時に、すごいと感じて、憧れとともに東北高校に決めました。
――東北高校では、3年間かけて、高校生のドラフトの目玉の選手に成長されました。ですが、その時でもピッチャーに対して、まだまだうまくできてない、自分の中でイメージ通りに体は動いていない状態でしたか?
雄平
 そうですね。やはり常にコントロールは、僕の中で課題でありました。球速を出すことは、トレーニングやフォームでイメージはできました。でも、コントロールには、いい日はいいんですけど、悪い日にどう自分をコントロールしているか、を把握するのが難しくて。体、気持ち、その日のコンディションなど、すべての要素の噛み合わせで自分は変わります。その対応・調整することはなかなか難しかったです。常に研究はしていたんですが……。あと、高校は一発勝負じゃないですか? だから、その日に駄目だったら、もうどうしようもない。夏の本番のために、しっかりいつでもどんな試合でもアジャストできるように、常に考えて、高校生の時から練習していました。
――雄平さんのことは東北高時代に前身誌『野球小僧』(白夜書房)でも、ドラフト候補として頻繁に掲載させていただきました。
雄平
 そうでしたね。よく覚えていますよ。
――ドラフト候補はメディアの評判を気にするのでしょうか。
雄平
 ものすごく見ていましたよ。『野球小僧』は特に面白くて、よく買っていました。1年生の時から「2つ上の先輩たちはどんな評価をされているんだろう」「プロにいくような選手はどう評価されているんだろう」と気になっていました。当時はアマチュア選手の映像があまり見られなかったですから。自分たちの代になっても、全国の同級生の有望選手を知りたくて読んでいました。
――「好き勝手に書きやがって」と思っていたのではないでしょうか……。
雄平
 いえいえ、僕は「当たってる」と思っていたし、いい評価をしてくださってありがたかったです。プロ野球のスカウトも絶対に読んでいると思うし、アピールになるので嬉しかったですよ。
――当時の名鑑(『野球小僧』No.13/2002年)を読み返すと、「プロでは15勝に3割30本30盗塁なんてことも夢じゃなく、目指すは『1番/3番・ピッチャー・高井』だ!」という記述もありました。いま思うと、二刀流のはしり、とも思える記述ですが、雄平さんの当時の気持ちは、投手も野手もやりたい気持ちはありましたでしょうか。それとも、それはさすがに二刀流は言い過ぎだろう、と思われていたでしょうか?
雄平
 はっはっは。二刀流はまったく頭になかったですね。
――もし、雄平さんがプロ入りする前に大谷翔平(エンゼルス)という存在がいたとしたら、二刀流にチャレンジしていましたか?
雄平
 僕はやっていないと思います。2つ同時は僕には無理でしょうし、そんな甘いものではないです。本当に彼は偉大です。普通は無理ですから。
――前述の通り、投手にこだわりのあった雄平さんですから、打者として評価されるのは複雑な心境だったのではないですか?
雄平
 いや、どっちも評価してもらえるのは、一人の高校生として、本当に普通に嬉しかったです。ただ、ピッチャーでプロにいきたい気持ちは、揺るがずに確実に持っていただけで。
――正直に白状しますと、我々のやっていることは、他人の進路をもてあそぶような、なんてデリカシーがない行為なんだ……と思ってしまうこともあります。
雄平
 そんなことないですよ(笑)。プロにいけるかどうかギリギリの人とか、載せてほしい人はたくさんいると思いますよ。
――ドラフトが近づくと取材ばかりで、うんざりしたことはなかったですか? 毎回「野球を始めたきっかけは?」とか、同じような質問ばかりされて。
雄平
 まったくないですよ。そんな学生は少ないんじゃないですか。取材に来てもらえれば話してアピールができるし、どんどん取材してほしいと思っていました。
――でも、取材された中には、どうしてもバッターとして評価している記事を見つけたりもしますよね。
雄平
 読んでいた一人なので、そう紹介されていた選手は何名か思い浮かびます(笑)。ただ、自分としては、野手っていう頭がまったくなかったんですよね。いま思い返せば、得意な方をやるべきだったな、とは思いますけど(笑)。でも、やっぱりこれは学生だから、部活だから、言えるかもしれませんが、「好きだからこれをやりたい!」とやるじゃないですか。だから、バッティングがいいと言われても、「自分はピッチャーをやりたい!」となるのは当然かなと。

●あの時こうしていれば……

――プロではピッチャーとしてスタートしました。プロ入り時点で、雄平さんは、こういう存在になりたいです、など、どんな成功イメージを抱いていたのでしょうか?
雄平
 「理想は」ですが、日本で活躍してMLBにいくこと。当時は石井一久さん(現楽天監督)がドジャースに入団したばかりで、MLBでも左投手が貴重だと聞いていました。もちろん日本で活躍することが大前提です。変な話ですけど、野手だとMLBにいくイメージは湧かなかった。ただ、もしかしたら、僕くらいの身長(174センチ)でも、数が少ない左投げなら、中継ぎなら、MLBにいける可能性が少しはあるかも、と思っていました。遠い遠い道のりではありますが、目標ではありました。
――身長の低さはコンプレックスだったのですか?
雄平
 ピッチャーでもバッターでもそうですが、やはり大きい力を出すには、体が大きい方が有利です。身長も大きくて、腕も長くて、足も長くて、パワー・筋力があれば一番。大谷翔平じゃないですけども、彼が理想系ですよね。選手の素質として、170センチ台の人は、なかなか190センチ台の人に敵わないです。でも、それ以上に人それぞれの体格で、どうやって力を出すかが大事ですから。大きい力を出すためにどうすべきか、は常々考えていました。
――投手としてプロ入り後は、プロの狭いストライクゾーンに苦しんだようですね。
雄平
 完全にそこでつまずきました。あと、バッターのレベルが上がると、誘い球のボールになる変化球をなかなか振ってくれなくなります。いろいろとレベルに達していない部分が浮き彫りになっていった感じでしたね。そこを補うために、結果を出すために、プロでもうんと悩みました。そこで、いろいろと勉強になることもありましたし。
――フォームは高校時代から頻繁に腕の振りを変えていましたね。かなり試行錯誤をされていたように感じられます。
雄平
 上から投げたり、横から投げたり、しょっちゅう変えていました(笑)。僕は下半身がサイド寄りの動きをするので、横からのほうが投げやすかったんです。でも、オーバーから投げた方が本格的なピッチャーになるかな、と思って、試行錯誤していました。
――そのあたりが、最後までピッチャーとして固まらなかった部分にもなってしまう感じでしょうか。
雄平
 ただ、プロに入ってからは、踏ん切りをつけて、ほとんどスリークオーターで投げていました。決め手はスライダーで、当時から真っすぐよりもスライダーがよくて、“スライダーピッチャー”と自分で思っていました。そのスライダーはスリークオーターのほうが特徴が出るので。
――「たら・れば」は禁物ですが、野球人生で「あの時こうしておけば……」と思うことはありますか?
雄平
 ……あります(笑)。だからといって、それをやっていたら、絶対に活躍できた、とは言えません。そんな甘い世界じゃないです。ただ、どんな結果になったか、見てみたかったくらいです。それは野手としてもありますよ。たとえば、違う腕の使い方をしていれば、もう少し安定していたんじゃないか……とか。
――そのあたり、もう少し具体的に教えていただいてもよろしいですか?
雄平
 昔はテークバックを取る際に「ヒジから上げろ」という指導が主流でした。でも、僕はこの感覚だと、どうしても力が入ってしまうんです。三角筋が固まって、動きが引っかかってトップに入り切れない。ちょっと低い位置から少し強引に投げ出しちゃう感じでした。引っ掛け気味で、力は入るので、スピードだけは出るんすよね。ただ、もちろんコントロールはつかない。でも、野手になってから発見したんですけど、「手から上げる」「親指を上げる」という使い方なら、僕はスムーズにトップに入れたんです。ピッチングはいかに力を抜いて、スムーズにトップに入れるかが大事です。いい時の自分はその使い方ができていたんです。知識も、野球理論も変化します。当時の「理にかなった」体の使い方で成功した人もいるでしょうし、僕の場合はいまの投げ方が「理にかなっていた」。そういう時代感もひっくるめて、違う自分を見たらおもしろいかな、と思うことはあります。
――もし、その使い方を当時の雄平さんが知っていたら、いまの知識で20歳ぐらいの自分に戻れたら……。
雄平
 いや、それでも大して変わらないと思いますよ(笑)。

高井雄平プロフィールと過去の野球小僧、野球太郎で掲載してきた高井雄平評価コメント

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