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【WBC・侍ジャパンメンバーのあの頃】怪物・佐々木朗希。順調にプロでステップアップする礎を築き、なにも間違っていなかった高校時代

WBCことワールド・ベースボール・クラシックで日本一に輝いた侍ジャパン。世の中も大いに盛り上がり、触発されて野球熱が再加熱した方もいたことでしょう。
これから侍ジャパンの選手をNPBの試合で見たり、一球速報を追ったりする際に、アマ時代など選手のバックボーンを知っていると、よりおもしろく、より選手に愛着を持てるはず!
ということで、そんな選手の背景がわかる『野球太郎』の過去記事を公開します。

今回は佐々木朗希(ロッテ)をご紹介。165キロに、最年少バッテリーでの完全試合。説明するまでもない“怪物”の高校時代を振り返り、どんな見たことない未来がやってくるのか期待した『野球太郎No.033 2019ドラフト総決算号』の記事をお送りします。
(取材・文=菊地高弘)

岩手の港町で見た景色

「さよ~なら~!」
 ランドセルを背負った見知らぬ女児にふいに声をかけられ、悪いことは何もしていないのにうろたえてしまった。
 その後も、すれ違う下校中の小学生が次から次へと「さようなら」と挨拶してくる。この地域では、たとえ知らない大人であっても小学生が挨拶する文化があるのか……と思っていると、腰を丸めて歩く老婆も穏やかな笑みをたたえて「こんにちは」と会釈してくれた。彼らに挨拶を返しながら、胸にほんのりと広がる温かみを感じつつ、内心こう想像せずにはいられなかった。
「佐々木朗希もかつてはランドセルを背負って、道行く人に『さようなら』と挨拶していたのだろうか?」
 私は盛駅から10分ほどの岩手県道9号大船渡綾里三陸線を歩いていた。右手にカーブする小路の前で、大船渡高校の案内板が見えた。案内板の右を見ると、10メートルほどの高台に木々が並び、フェンスには創立70周年を祝う横断幕が下がっている。時刻は16時を過ぎたばかりで、校庭と思われる方角からは生徒の声は聞こえない。
 正門の前で私は立ち止まり、すぐに踵を返した。大船渡高校の校舎内にメディアが立ち入らないよう、学校から要請が出ているためだ。大船渡高校は基本的に校舎内での取材に応じておらず、私は高台にある野球部グラウンドを見ることすら叶わなかった。
 それでもスマートフォンを取り出し、グーグルマップの衛星写真をたよりに野球場の場所の下までたどり着くと、誰もいない高台のフェンスを見上げた。「ここで佐々木は3年間を過ごしたのか」と思うだけで、不思議な感慨があった。
 佐々木は大船渡高校から徒歩圏内で、小学生から現在までの時間を過ごしている。私に挨拶してくれた小学生は、佐々木が8年前から通った猪川小の生徒たち。猪川小からさらに20分弱も川沿いを歩けば、佐々木の通った大船渡一中に着く。
 なだらかな稜線を描く今出山のほか、周囲に小高い山がそびえる以外に視界を遮る高いものがないため、「紳士服のコナカ」の赤く巨大な看板がやけに存在感を放っている。聞こえる音といえば、車の走行音の合間に鳥のさえずりが響くくらい。平凡で日本中のどこにでもありそうな風景。それは佐々木が今まで日常的に見てきた世界だった。

岩手に逸材が出現する理由

 なぜ、岩手にばかり怪物が現れるのでしょうか――?
 この1年間、何度そう問われたかわからない。2009年に菊池雄星(マリナーズ)、2012年に大谷翔平(エンゼルス)がドラフト会議の目玉となり、そして今年は佐々木朗希である。10年で3人もの超大物が出現すれば、偶然ではない秘密が隠れているのではないかと疑う心情も理解できる。
 私もすがるような思いで、岩手の野球関係者に聞いて回ってみたこともある。「自然に囲まれたくましく育つから」「食べ物がおいしいから」などの要因を語ってくれた人もいたが、だいたいは苦笑して困り果てるのがお決まりのパターンだった。今のところ「たまたま」としか言いようがない。
 また、一口に「岩手」と言っても、その面積は本州で一番広いことも忘れてはならない。菊池は盛岡、大谷は水沢(奥州市)と内陸部出身で、佐々木は沿岸部の出身。陸前高田で生まれ育ち、2011年の東日本大震災を機に大船渡へと移住している。
 そしてドラフト会議を直前に控えて、私はあることに気づいた。佐々木が幼少期から過ごす大船渡に、ほとんど行ったことがないということだ。菊池や大谷の花巻東在学中には何度も花巻に足を運び、彼らが過ごした日常的な風景を見てきた。大船渡に行ったからといって、佐々木の何かがわかるわけではない。それでも、佐々木が数々の強豪校からの誘いを断り、「地元の仲間と甲子園を目指すことに意味がある」とこだわった大船渡の町を自分の目で見てみたかった。
 10月2日、大船渡市の市民文化会館・リアスホールで佐々木の進路表明記者会見が開かれることになり、私は東京から大船渡へ向かった。電車を乗り継ぎ、気仙沼からはバスで終点の盛駅を目指す。東日本大震災の被害を受けた影響で大船渡線の気仙沼〜盛岡間は復旧を事実上断念し、バス輸送システム(BRT)の運行になっている。
 道中、佐々木が幼少期を過ごした陸前高田を通りかかった。近代的な道の駅が建つその隣には、津波に襲われ廃墟と化した旧道の駅が無残に晒されている。新しい家屋が建ち並ぶエリアは、津波の被害を受けたことを意味していた。沿岸部にはクレーン車やショベルカーなどの工事車両が当たり前のように行き交い、震災の爪痕はそこかしこに残る。「奇跡の一本松」は信じられないほど華奢で、どうやって津波の猛威から逃れたのか、想像すら湧かなかった。
 私はそんな光景が広がる車窓を眺めながら、佐々木に何を質問するか考えていた。ドラフト会議当日を会議場で迎えることが決まっている私にとって、高校在学中の佐々木に質問する最後のチャンスになる。
 各メディアからの取材が殺到するため、学校側は単独インタビューを受け付けていない。佐々木への取材は、いつも公式戦後の囲み取材に限られた。膝を突き合わせて聞きたいことは山ほどあったが、共同会見となると質問は絞るしかない。今回、私が質問できるのは1問が限度なのは目に見えていた。
 なぜここまでの投手になれたと思うか。プロで戦う上でもっとも不安な部分はどこか。大船渡を離れたいと思ったことはないのか。登板せずに終わった夏の決勝を今ならどう振り返るか。プロ志望届を提出する前にあった選択肢は何か……。
 どれも聞きたいし、どれも最後の質問としては底が浅いような気もした。佐々木に感じる根源的な謎は何か。私は佐々木を初めて生で見た今年の4月6日を思い出していた。

佐々木朗希が怪物になった日

「すごく緊張して、変に力が入ってあまり(ボールが)指にかかりませんでした。2ストライクに追い込んでから力んでしまったので、精度を上げていきたいです」
 バックネット裏のスカウトのスピードガンで163キロを計測した登板後、佐々木はそう振り返った。初の試みだった侍ジャパンU-18候補の研修合宿での紅白戦。佐々木は森敬斗(桐蔭学園高)や紅林弘太郎(駿河総合高)ら日本を代表する高校生を相手に、6者連続三振の衝撃的な投球を披露した。
 奥川恭伸(星稜高)も石川昂弥(東邦高)も西純矢(創志学園高)も、その日最大の驚きとして佐々木のボールを挙げた。示し合わせたように「今まで見たことがない」と口を揃えた。あるスカウトが「一人の野球人としていいものを見せてもらった」と神妙に語っていたのも印象的だった。たしかに、それほど見る者にショックを与えるボールを佐々木は投げていた。
 バッテリーを組んだ藤田健斗(中京学院大中京高)は「捕手をしていて初めて恐怖を覚えた」という。ストレートはかろうじて捕球できたが、高速で鋭く曲がるスライダーやフォークは何度も後ろに逸らした。
 私は三塁側フェンス前で佐々木の投球を見ていたが、「捕手の藤田が死んでしまう」という恐怖と、自分の遠近感が狂う錯覚を覚えた。佐々木のマウンドでの存在感が大きすぎるあまり、投本間の距離が短く感じられたのだ。この日に見た、佐々木の暴力的なまでの剛球は一生忘れないだろう。
 ところが、5月に春の沿岸南地区予選を見にいくと、佐々木は140キロにも満たないストレートとスローカーブを中心に打たせて取る投球をしていた。別人のような姿に「ケガでもしたのか?」と心配になったが、試合後の國保陽平監督の説明に納得した。
「4月中旬に骨密度を測定していただいたりして、まだまだ大人の骨ではないと。球速に関する期待はあるんですけど、球速に耐えられる体ではない。骨、筋肉、靭帯、関節がまだそういうものじゃなかったんです」
 それ以来、佐々木は要所以外では7~8割程度の力加減で、強度をセーブするようになった。今夏の岩手大会では盛岡四戦で最速160キロを計測したものの、4月に見た時ほどのボールの迫力は感じなかった。
 だが、そんな佐々木に落胆したわけではない。むしろ大船渡の試合を見て、佐々木が高校で大きく成長した要因が見えた気がした。印象的だったのは、大船渡の選手は監督の指示を待ったり顔色をうかがうのではなく、自分の意思で戦っていたことだ。
 試合前のストレッチは、選手個々が自分の体と向き合うように体をほぐす。佐々木なら股関節周りや肩甲骨周りを重点的に動かしていた。あるOBによると、國保監督が就任してから「必要のないことは省こう」という方針になったという。前号の『野球太郎』でも書いたように、佐々木は「メリットを感じないから」と遠投をしない。以前、國保監督はこんなことを語っていた。
「メカニックな部分は触りません。誰かに指導いただくことがあっても、自分の感覚の上でプレーしないと、頭と体のズレが生じる危険があります。選手には『自分の感覚を大切にしなさい』と伝えています」
 もちろん、佐々木の人並外れた才能があってこそ、ここまでの怪物になったのは間違いないだろう。だが、常識を疑い、自分の体と感覚の特性に向き合っていたことも、佐々木を大きく成長させた要因の一つだ。岩手大会の決勝戦で佐々木を起用しなかったことばかりが批判される國保監督だが、佐々木を導いた功績はもっと評価されるべきではないか。その指導スタイルは、新時代のひとつのモデルになっていくはずだ。
 そして、当然のことながら佐々木の完成形は今ではない。このまま成長し、スピードに耐えられる体を作り上げた時、どんなボールを投げるのか。それは楽しみという次元を超えて、見知らぬ土地に取り残されるような心細さすら覚える。人間が行き着ける範疇を突き抜け、誰も知らない世界に連れて行かれてしまうのではないか……。佐々木を見ていると、そんな不安さえ湧いてくる。
 そこまで考えたとき、佐々木への最後の質問がおぼろげながら見えてきた。

そのとき、佐々木は沈黙した

 大船渡高校、猪川小、大船渡一中と佐々木のゆかりの学校を徒歩で回っていると、会見の時間がやってきた。リアスホールでの会見には30社55人の報道陣が集結。大船渡サイドは佐々木本人のほか國保監督、吉田祥校長、吉田小百合部長も出席して、張り詰めた緊張感のなか始まった。
 本人のプロ志望表明のあと、幹事社からの質疑応答があった。長い質問に対しても、佐々木は短いセンテンスで淡々と答えを返していく。その回答も当たり障りのない内容ばかり。佐々木の「メディア泣かせ」は今に始まったことではなく、不満をこぼすメディア関係者もいる。だが、私はボールでこれだけ雄弁に語ってくれているのだから、言葉数が少なくても問題ないと思っている。
 私を含め、幹事社以外のペン記者に残された質疑応答の時間は5分しかない。幹事社の質問時間が終わると、私は真っ先に挙手してハンドマイクを手渡された。
 私は自分の名を名乗り、数メートル先に座る佐々木に問いかけた。
「佐々木投手はまだまだ伸びしろがたくさんあると思うのですが、プロ野球の投手として『ここまで到達したい』と具体的に思い描いているイメージがあれば教えてください。『こんなボールを投げたい』でも、『こんな成績を残したい』でもいいので」
 質問終えてマイクを下げ、佐々木の回答を待つ。ところが、佐々木は私を真っすぐ見つめながら、そのまま微動だにしない。会見場に今までになかった沈黙が流れた。
 もしかしたら、佐々木は私の質問が終わったと認識していないのだろうか。不安を覚えて何か言葉をつなごうとしたところ、ようやく佐々木が口を開いた。
「プロに入ったらタイトルがあると思うんですけど、すべてとれるようなピッチャーになりたいです」
 正直に白状すると、私は少し肩透かしを食った感覚を抱いた。もし佐々木の言葉が実現できれば、たしかにとてつもない快挙ではある。それでも、前代未聞と言っていい佐々木のスケールを思えば、「タイトル」という既存の価値に収まってほしくないという身勝手な思いもあった。そして回答の内容以前に、沈黙の長さが気になった。
 沈黙している間、佐々木は何を考えていたのか。もしかしたら単純に言葉が浮かばなかっただけかもしれないし、何か別のことを言おうとしていたのかもしれない。そのことは佐々木にしかわからないことだ。
 また、この会見では佐々木から興味深い回答が出るシーンがあった。「この1年間でもっとも自分らしさが出た試合は?」という質問に対し、佐々木は「3月の作新学院との練習試合」を挙げたのだ。
「自分の思うようにコントロールできた、満足いく形で投げられたと思います」
 さらに現段階での体づくりの状況を聞かれると、佐々木は「体はできているがまだまだ自分としてはできると思う」と答え、國保監督は「強度に耐えられる体づくりの途中にある」と答えた。プロ入り後も引き続き、体の成長を待ちながらトレーニングを積んでいくことになりそうだ。

佐々木がこれから見る世界

 10月17日、ドラフト会議で4球団の競合の末、交渉権を得たのはロッテだった。近年、平沢大河、安田尚憲、藤原恭大と高校生野手をドラフト1位指名しており、今回の佐々木の指名で「骨太な好素材を育成していこう」という球団としての強い意志を感じる。ドラフト後には順天堂大医学部との連携も発表し、医科学的な分野からも育成をサポートする体制を着々と整えている。
 佐々木が見てきた景色は、これから大きく変わっていく。大船渡から千葉(もしくは浦和)という変化だけでなく、野球人として今まで見えなかった境地にたどり着けるはずだ。その最高点に達したとき、佐々木はマウンドからどんな景色を見るのだろうか。
 きっとそのとき、佐々木を追いかけ、成長と無事を祈ってきたファンもまた、今まで見たことのない地平を目撃するに違いない。
(取材・文=菊地高弘)