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#山に十日 海に十日 野に十日 12月

「まつばんだ」の刃

 屋久島に伝わる幻の民謡「まつばんだ」を初めて聞いたのは、1980年ごろだったろうか。そのころぼくは30歳を目前にして、人生に対する考え方が、大きく変わった時期だった。二人目の子供が生まれ、それまで自己中心的だった生き方から、子ども中心の、未来に軸足を置いた在り方へと、転換したころだった。
 未来の子どもたちに重荷を背負わせてはならない。そのためにはぼくらは何をしなければならないのか? そのためには、何をしてはいけないのか?

 当時ぼくは、「国有林即時全面伐採禁止」という旗を掲げて、ラディカルな運動を展開していた「屋久島を守る会」の運動に共鳴。「子孫に残そう! 屋久島の原生林」という合言葉の下、署名活動やビラ配り、ポスター作製や伐採地見学バスツアー、さらには東京での原生林保全大会の開催等、さまざまな活動に参画した。
 やがて、初代代表の兵頭昌明が「議会活動を重視すべき」と、町議会議員になってからは、ぼくが二代目を引き継いだ。 
「別個に動いて共に撃つ」=どちらかというとゲリラ的な活動が好きだったぼくは、代表には不適格だったのかもしれない。だが会に縛られるのではなく、一人一人がそれぞれ思い思いの「闘いの狼煙」を随所で挙げる運動の方が、やっていて面白いし、また持続性もあると思ったのだった。

 そのころだった。「まつばんだ」と出会ったのは……。

〽屋久のお岳を おろかにや思うなよ
 金の蔵よりゃ なお宝な〽 

 衝撃的だった。その歌詞の文句は、まるで「刃」だった。

 まさかアンタ、屋久のお岳を経済的な側面からしか見てないよ
ね? そんなチャチなもんじゃないんだよ、アンタたちのお岳は! 
お金の蔵なんかよりも、もっともっと凄い「宝」なんだよ。
分かってるのかい!?

「まつばんだ」のその一番の歌詞が、刃となってぼくを突き刺した。その「宝」とは一体、何なのか? 「まつばんだ」に出会って以来、その宝を捜し出すことが、ぼくの人生の目的のひとつとなった。

 それから約40年の歳月が流れた。当時、「まつばんだ」を唄える人は誰もなく、録音されたものの中にしか存在しなかった。
 それが今、幾人もの人たちが歌い継ぐようになり、最近では『南洋のソングライン─幻の屋久島古謡を追って─』(大石始著)という、書物まで出版された。人生はドラマチックで、本当に面白いものである。

 そうなると、歌うたいの端くれであるぼくとしても、唄わないわけにはいかないだろう。だが、どうやって唄えばいいのか?
 今ぼくが(ぼくらビッグストーンが)、「まつばんだ」を唄う意味合いは、どこにあるのだろうか。

 かつて、アイヌの伝統音楽を引き継いでいるミュージシャンと出会ったとき、「西洋から伝わったギターを弾いて、フォーク・ソングを唄うことに、何の意味があるのか?」と詰問されたことがあった。ショックだった。アイヌにはアイヌの伝統楽器があり、沖縄には沖縄の伝統音楽がある。それぞれに独特のリズムを持った音楽と踊りがある。屋久島には、何があるのか?   自分にとっての「オリジナリティ」とは、一体何なのか? 自分は、何処から来て、何処へ行こうとしているのか?

 やがてたどり着いた結論は、まずはこの島の過去を知ること。そして現在の在り方を問い直し、未来へとつなげていくこと。
 この島で、この国で、この地球で、今生きていることの意味合いを模索しつづけること。その延長線上に、自分のオリジナリティが生じてくるはずだ。借り物の楽器でも、いいではないか。何はともあれ、自分の言葉で、自分の思いを表現しつづけようと! 
   
 そして思った。「まつばんだ」の根源的な問いに答えるためには、「アンサーソング」を作るしかないと! 
「この島で生まれて、この島で死んでいく人間」としての覚悟を握りしめ、今は亡き死者たちの想いもしっかりと受け止めながら、子どもたちの未来に想いを馳せるような、そんなアンサーソングを! 
 
 その後、「まつばんだ」のルーツが、どうやら南西諸島の先の「与那国島にある」という話を聞いた時、ぼくは嬉しくなった。江戸時代、薩摩藩の支配下に置かれ、経済的にも文化的にも、圧倒的に本土の支配下にあった屋久島に、「琉球の文化」が入り込み、根付いていたことに。

 共同墓地が、納骨堂形式に変ってしまうまで、島では土葬が一般的だった。お岳が見えなくなる深さまで穴を掘って埋葬し、その上に霊屋(たまや)を建てる。霊屋は、死者が雨露をしのげるように家の形をしていて、その背面には「先島丸」という船の絵が描かれた。死者の魂は、その先島丸に乗って、あの世へと旅立っていくのである。
 ぼくのすぐ上の兄は、昭和22年に3歳で亡くなったが、最後に発した言葉が「船が来たから、乗るね」だったそうだ。母は「その船は先島丸だから、まだ乗っちゃ駄目だよ」と叫んだという。
 その母も、ぼくが10歳の時に亡くなり、父はぼくに先島丸の絵を書かせた。ぼくは筆をとり、霊屋の背面一杯に大きな先島丸の絵を描いた……。

 島は、孤独である。海によって隔てられているので、おいそれとは交流が出来ない。だがそれでも、互いに繋がっていたいというのが、島の願いであり希求するところである。
 あの世にあるという「先島」が、何処にあるのか知らない。だが感覚的に、それは間違いなく南の方だと思う。はるかな海原を超えた、南の果てに確かに存在しているに違いない。そしてそれはもしかして、与那国島の近くなのかもしれない……。

「まつばんだ」の歌を聞いていると、「この世は今生きている私たちだけで成り立っているのではない。死者たちの声もきちんと聞きなさい」と、言われているような気がする。
 そのうえで、今という時代に謙虚に向き合い、未来を展望しなさいと!  

 まつばんだ─この島で─
    
この島で生まれて この島で生きてきた
海を眺め 空を仰いで  
この島で生まれて この島で死んでいく
海に抱かれて 空に抱かれて 
  〽屋久のお岳を おろかにや思うなよ
  金のな 蔵よりゃ なお宝な〽  
過去からの声を聞け この島で生きてきた  
先人たちの 声なき声を 
この胸に受け継いで 立ち上がれ歩き出せ  
山を仰いで 大地踏みしめて 
〽屋久のお岳の 石楠花よ 
 年中な 蕾んで 一度咲くなぁ 
 
この島で子どもらと この島で生きてゆく 
月を眺め 星を数えて 
この島でいつまでも この島でどこまでも 
海に抱かれて 空に抱かれて 
  〽宮之浦岳の 年の神様はよ
   いつでもな 山から 見ているなぁ〽 
この島で生まれて この島で生きてゆく
海に抱かれて 空に抱かれて
海に抱かれて 空に抱かれて

ビッグストーン「まつばんだ─この島で─」(詞=長井三郎・曲=笠井廣毅) 

…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。