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「つまらない」とは何か 演劇編 #7 作品と一人ひとりの芝居の“リアル度合い”が違う

最近ようやく「台詞の行間を読む」とか、「台詞が言えない、と感じるとき」というのがどういうものかピンとくることがあったので、書いてみる。

先日の記事の「あ、これ、おばあちゃんが好きだったとらやの羊羹」という台詞は、「言葉的に」そうは言わないだろ、だったが、ここで取り上げたいのは「態度的に」そうは言わないだろ、ということだ。

例えば美術館のロビーに同じタイミングで居合わせたAとB(初対面)がひょんなことから立ち話をすることになったとする。Aが去りかけてなおそこにいようとするBに

A「あなたはどこか行かないの?」と問うと、

B「人を待ってるんです。」と言われ、

「彼氏を待ってるのかな?」と思ったAは

A「もしかして、彼氏?」

と聞く。とする。

あなたなら「どのように」この台詞を口にするだろうか。僕が思うに、それまであったBとの間の距離を少し(一歩分か、半歩分)近づいて、それまでのトーンより声量を抑えて「もしかして、彼氏……?」と聞くと思う。プライベートの込み入った話しだし、もし本当に彼氏を待っていたとして、他の人が通って小耳に挟まれるのはBが嫌がるだろうからだ。

この「もしかして、彼氏?」を、それまでの距離感とトーンでそのまま言ってしまうとする。それはそれでアリ……なキャラクターなら良いが、おおよそ「大の大人」「良識ある人間」というイメージではなくなるのではないだろうか。「デリカシーの無い変人、ずけずけと物を言うむとんちゃくな人」「少なくとも現実にはいそうにない。お芝居だから仕方ないか」と思う人もいるように思う。その演劇が曲がりなりにもその場にいる人間の言動にはリアリティを追求している会話劇なら、そんな言い方をしてしまった時点で「落第」だ。

演劇は「再現」だと言う人もいる。舞台上にどのような状況を再現しているのか。状況が「箱、ハード、概要」ならその中で行われる一つ一つの言動は「中身、ソフト、内容」となる。どちらにも、「リアル度合い」という判断基準があると思う。これは作品の世界観や内容でなく、「形式」のリアル度合いだ。「歌舞伎」「能」などの形式はリアル度合いは重要でない。それより伝統的な「型」が重要視される。現代よくあるいわゆる「会話劇」なら、どこまで舞台セットを具体的に用意するか、はともかく、役者の言動についてのリアル度合いは最高潮だろう。役者の会話や言葉遣い、仕草は現実味を追求しなければならないはずだ。

作品全体の「形式」から予想される「リアル度合い」と、実際の台詞の言い方などの「リアル度合い」が食い違うと、観客が見たときに「おかしくない?」とか、「下手だなあ」と思うのではないだろうか。
ちなみにここでいう「予想」とは、観客の心の中での「予想」つまり「この作品はこういう感じだろう」という「先入観」に近いものであり、おそらくチラシやSNSの宣伝などで事前に醸成されていることも多いと思われる。
では台本の「行間を読む」とは、「その場面や戯曲全体を、我々(スタッフとキャスト)がどのような形式で上演しようとしていると『観客が予想しているか』」を想像し、「その中で台詞はどのような態度、声量、勢い、体勢、等などを用いて発するべきなのか?」というのを考えることなのではないだろうか。それは台本のト書きもおおいにヒントになるし、言う相手がどのような人物で、自分の役とはどのような関係なのか、そして自分の役はどのような人物なのか、など考えなければならないことが山のようにあるのだ。
逆に言えば、その作品をどのような形式で上演したくて、そういう形式であるということを観客にスムーズに受け入れてもらうためには事前の宣伝をどのようなものにすればいいか、を考えなければいけない、ということかもしれない。

書いていて、自分で頭が痛くなってきた。演技においても情報宣伝においても、自分が過去できていたかを振り返れば憂鬱になる。

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