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一人芝居『地球空洞説』ステートメント

3月25〜26日に、京都太秦にある小劇場、シアターウルで上演する一人芝居『地球空洞説』についてのステートメントです。
寺山修司の同名戯曲をもとに、構成変更、潤色を行い、アイデンティティの拠り所への問いを投げかけながら、「演劇を、上演が終わり劇場を出た後の、観客の日常にまで侵食させる」ことを試みます。

概要
役者でない 一人芝居『地球空洞説』
日時 2023年3月25日(土)、26日(日)
開演時刻 25日14時、18時/26日11時、15時
各30分前開場・受付開始
会場 KYOTO ART THEATRE URU
料金 投げ銭制(理想額3000円)
予約はこちらからお願いいたします

​詳細は下記ホームページまで


STATEMENT


今回取り上げた戯曲『地球空洞説』を読んでいたのと同じタイミングで、批評家小林秀雄の著書『考えるヒント』(文春文庫 刊)も読んでいた。

その中のひとつの章(言葉)で、本居宣長の言葉「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」を引用して、「(和歌として実際に文字として書かれる)言葉は真似し難いが、(その和歌に込められる)意味は真似し易い」(p.71)、なぜなら「意には姿がないからだ」(p.73)と書かれている。

これを読んで少し合点するところがあった。これを身体表現に転用して話す。
例えば私が(例に出すだけでそんなたいそれたことはしないが)「舞踏の開祖たる土方巽と同じ心で踊っている」と言ったとする。呆れてでも興味をもってでも、いざ私の舞台を見た人は「到底そんな域には達していない」と言うだろう。なぜならそこまでの鍛錬も、所作も、舞踏譜(ほかのジャンルの舞踊でいうところの、振り付け)の継承もしていないのは、一目見れば一目瞭然だからだ。

​しかしそれは、私の踊りを見てそう判断されたに過ぎない。「土方巽と同じ心で踊っている」と豪語するのは誰にも止められるものではない。そう言うのを聞いただけで、踊りを見てもいない者に、その意思を否定することはできないはずだ(そんなことを本当に言う気はさらさらない、ということは重ねて書いておく)。

そう考えると確かに「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」だと感じた。

さて、『地球空洞説』の話に戻る。この戯曲にはタイトルの通り「地球の中は空っぽなんだ」と言う人を筆頭に、様々なものの内側や、その場が夢か現実か、など「その場ではすぐには確認できないもの」に対して、勝手なことを言う者たちが多数登場する。そこから私が考えたこの戯曲の主眼の一つが「他人から見えるもの(外見)でしか、自分のアイデンティティを確立することはできない」つまり「内面のことはなんとでも言える」ということだ。

なるほど自分のアイデンティティをわかってもらおうと、人は好きな服を着るし、好きなものを食べるし、好きな場所へ行く。その様子をSNSに投稿する。しかしそんなものだけでは、自分のことをわかってもらったと思ってほしくない。内面まで知ってもらったふうに思ってほしくない。ではどうすればいいのか。

「私は〇〇だ」と、口に出して言う。それだけで良い、のではないか?。

むしろそれ以外にどうすればいいのだろうか。「内面のことはなんとでも言える。」むしろ、「言わなければわからない」「言う以外に示し方がない」と言えるかも知れない。それこそ外見に表しでもしない限りは。

「本当の私はこんなんじゃない」と思っているなら、それを言葉にして出す、外見で表す。なんとでも、言いたいように言えば良い。「内側のことはなんとでも言える」というのは諦観ではない。外見ばかりが気にされ得る現代の、ささやかな希望だと思っている。

この公演は寺山自身がこの戯曲を上演した際の「形」とは、とうていかけ離れている。出演者数からして全く違う。
しかしこの作品で寺山がやりたかったことの、いくらかは舞台上に呈することができるのではないか。私はそう思っている。

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