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本当はわたし自身の価値観でありのままに行きたいと思っている

やくさひろです。

出版に向けて執筆をしている中で、こんなことを考えるようになりました。

大半の事はどうでもよくて、本当は私自身の価値観で生きていきたいと思っている自分

自分以外の人間を理解すること、これは苦しい経験から得られるものだと痛感しています。つまり自分があわない、苦手だと感じる人との時間の共有を経て初めて理解することの域に達することができるのです。

第一印象という言葉がありますが私にはほぼ無関係の言葉。最初の印象は確かに大切であることは理解しています。どの職種においても社会生活を営む上で印象というものはその人の姿形にとどまらず内面を表すものであることは理解しているつもりです。

でも人という生き物は私たちが解明できない複雑な生き物なのです。第六感的なインスピレーションに頼ることだけは避けたいと思っています。人という生き物は同じ時間を共有し互いに交わることがなければ理解を深められない生き物なのだと思います。第一印象があわない、苦手だと直感的に感じる、これは女性ならではのあるあるなのかもしれません。

第一印象をよくするためのノウハウ、見せ方みたいな情報が世の中に溢れています。でもそれを実践する時間こそ「無駄」であると私は考えています。
何故なら、第一印象をよくするメイク、髪型、表情、服装、声調、を意識することは「世の中の標準の押し付け」だと感じてしまうからです。

メイクは薄く、髪色も落ち着いた茶色か黒で、などという社会的な常識にとらわれたくないのです。

私の美への基準は「清潔感があるか」だけです。

どれだけの金髪でも手入れが施されているツヤがある髪質であればそれは髪色が表現する美しさに繋がると思います。爪の長さも長くても上品な仕草が相重なっていれば魅力的にうつるのではないでしょうか。表情も同じく口角をあげて挨拶をすること、に何の意味があるのでしょう。

口角が下がっていて常に不愛想な表情の時も人間なら誰しもあること。
偽りの姿をみせることよりも「今日はこんな気分でね」と素直に言える関係性を構築する心をもつほうがよほど意味があると考えます。

第一印象たるや、やはり美と関連付けて考えられる求められる気持ち悪さを感じてしまいます。

そういえば過去に大人のマナー講座というものを受けた経験があります。その際の先生が元CAだったと記憶しています。ただただ濃いメイクを施し、作られた笑顔をし、不衛生さを感じる指先をされていた姿を今での覚えています。

この人がマナーを伝授できるの?という疑問を抱きながら講習を受けました。他人に厳しく自分に甘く、という生き方やジャッジだけはしたくないので、その経験以降、本当に自分に合うメイクやケアのやり方、髪型、手入れ、ありとあらゆることを試してきました。

その中で一つ大切なことをお伝えしたいと思います。それは
・女性同士のジャッジは基本的にあてにはならない
ということです。

その髪型いいね、とても似合ってる、今日のメイク今までで一番かわいい、素敵!最高の褒め言葉を女性同士、友達同士では当たり前のように交わされるのですが、本当の意味でのジャッジは、「自分が学べる相手と出会えるかどうか」なのだと考えてください。髪型を変えてメイクもプロに教わり翌日に効果がでるものではありません。

その姿、形だけで寄ってくる人であるのか、あなたの内面と姿形に興味を抱き近づいてくるのか、その後の人生に大きく影響をする人間関係の構築に関わってきます。

第一印象たるものは日によって変わるものであり、それで判断するよりも私は初対面で挨拶をするとき、名刺を渡すより握手を求める。これは幼少期にアメリカ生活で学んだ一つの文化です。

最初の「何となくあわないかもしれない」というネガティブで警戒心のある自分の心を溶かすことができるのです。
自分の心のガードを取ることを日常的な習慣にしています。

心から繋がれる人を増やしたい。それが本当の意味でのコミュニケーションの叫びなのではないでしょうか。

だから私はバリアをはりません。第一印象こそバリアであり、握手を求めていく溶かしていく。
人の体温や肌の感触を感じることが人間という生き物の本来のコミュニケーションなのだと思います。

第一印象たるもの、すべて自分の経験や判断や価値観に限定されてしまいます。これでこの先本当に大切な仲間を見逃してしまうことが一番怖いのです。

世の中の常識やノウハウと声高々に言われている情報に何故?を加えてみてください。その何故?に納得できる回答を是非自分自身で表現してください。私は何か得体のしれない「こうであれ」という要求に対して自分で意味を持たせることができなければ、自分の好きな価値観で生きていくようにしています。

これは現在も相談に来られた方に必ずお伝えしている言葉です。
「本当はこう生きたいのに」
「本当はこうありたいのに」
という言葉が聞こえたら、もう自分の本心に到達している証拠。

マイウェイを貫くための道筋は超論理的に組み立てられているのです。

産まれたままの姿では生きていけないこの世の中だからこそ、自分の心や感情を含むあらゆる自分の構成物質を、周囲からの抑圧から守るためにがんじがらめに、簡単には紐解けない構造にしてしまっているのだろうか、と考えることがあります。紐解くきっかけは他人の言葉であっても行動するのは自分自身であるのです。

本来の自分を今から作り上げる


許すこと。許容することの前提に怒り・絶望・悲しみ・落胆という感情がつきまといます。恋人関係においての浮気、夫婦関係においての不倫、裏切り。友人同士での裏切り、世界には沢山の悲しみや落胆が溢れています。

自分が期待するからいけないんだ、人に期待してはいけないなど仙人のような言葉を押し付けらることもありますが私たちは血の通った人間だからこそ考えてしまいます。悩む。乗り越えようとあがくのです。

怒り、絶望、悲しみ、落胆。すべては人や人が起こした行動に対して抱く感情。私も何度も何度もそういった思いにさいなまれ、何日も何週間も何か月もひきづったことがあります。

そういった感情から一つ距離をおくためには自分という人間の主軸を明確に打ち出すことが大事なのです。

自分という人間は何を考えて何を大切にして何に対して許せない気持ちがあり、何に対して没頭し、明日はこうなりたい、未来はこうあってほしい、自分を取り巻く環境はこうありたいと願うこと。形にしようと実践する人を主軸があると私は表現しています。

自分以外の第三者に期待をしてもいいと思います。当然期待をするべきなのでしょう。期待、要望、要請、人間として当然の行為であり感情なのだと思います。日本人は特にこういった感情を伝える行為が苦手なのだと感じています。それ以前に自分の主軸を持っていない人、気が付いていない人、相手の主軸にあわせてその時々で変化をさせ生きていく人が圧倒的多数だと感じています。

もっと自分の感情を相手に伝えられるように自分という人間を観察してみましょう。

私はネガティブな事象に対面してしまったときでも、「私の世界とは違うのね」とストンと心の中で幕を閉じることができます。宇宙船ですぐに別の惑星に飛び立つのです。ある部分では冷静に、ある部分では自分本意であり、他人から見るとわがままにうつるかもしれないが、それでいい。

許すという行為やそれに至る感情を抱くためには、主軸を持つということ。自分という人間を知るということ。知った上でこうなりたいと思う理想の自分と現実の自分とのギャップを認めること。そのギャップをうめるために自分自身に対しての努力を惜しまないことが大切です。

人は自分ひとりで生きられるものではありません。他人を交わり生きていくしかないのです。そのためには自分が傷つかない最大限効率の良い生き方をしていきましょう。

自分の本来の姿を頭で考えるだけでは何も行動に移せません。私のように箇条書きで良いのでノートに一度書いてみることをおすすめします。自分のことを言葉で表すなんて、なんて酷な作業なのだと気付くはずです。
認めたくない自分がどんどん現れてくるのです。もうそれはそれは嫌になる作業です。

その酷な作業を乗り越えたときに、両手をぐっと握り合わせてください。
その時、何をかんじましたか?
どういう感情になりましたか?

心の痛みにも似たようなスパイスのような感情を、ぐっとくる力強いエネルギーに変えていきましょう。

心のありかた、持ち方が私の「手のお手入れ」という一つのメソッドに繋がっていったのです。

やくさひろです。 記事が広くシェアされ、手のお手入れを通して誰かの幸せに繋がることを願っています。 いただいたご支援は活動費として使用させていただきます♡