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雑記帖

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日々思い浮かぶよしなしごとを書いた雑文をまとめる雑記帖です。
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2019年11月の記事一覧

新刊の洪水に溺れて

12月16日に予定されている斎藤哲也さん、吉川浩満くんとのゲンロンカフェ・イベントに向けて、本のリストをこしらえている。

「「人文的、あまりに人文的」な、2019年人文書めった斬り!」という、やや乱暴なタイトルで、この1年のあいだに刊行された人文書のうち、お互い印象に残ったものを並べて持ち寄り、それを材料に話すというイベントである。「めった斬り」というよりは「めっちゃ褒め」と表現するほうが実情に

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植物図鑑としてのInstagram

この1年、手元に来た本や雑誌の写真をインスタグラムに投稿する、ということを続けてみた。

新刊も旧刊も関係なく、ともかく手にした本を撮影して、書誌を書いて投稿する。言ってしまえば、それだけだ。

とはいえ、私のような不精者には、これでも結構メンドウで、仕事に気をとられていると、未撮影・未投稿の本が山となってしまう。あるいは、投稿する前にどこかに紛れていってしまう。

もちろん誰に頼まれるでもなく勝

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引越前の家でごそごそしていたら

昨日は文学フリマに立ち寄って、夜中にそのことをnoteに書いた。

のだったが、運悪くnoteの引っ越し(ドメイン変更)の最中だったようで、テキストは保存されず、電子のもくずとなった。よい子ならそんなことをせず寝ている時間帯に起きていたのがあかんかったといまは反省している。

恨み言を書こうというのではない。noteは優秀なサーヴィスで不満はないし、昨晩の出来事にしても、予告されていたのを忘れて、

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近頃足りないもの

雨の日は嫌いではない。あたたかいお茶をいれる。毛布にくるまって楽しみのために本を読む。時折、雨粒がひさしかなにかを叩く音が聞こえる。アスファルトを流れる水を切って車が走り去る。夏はあんなに嫌な湿り気も、冬にはありがたいのだから勝手なものである。

切りのいいところで本から顔をあげて伸びをする。鼻唄を歌いながらお湯を沸かしてお茶をいれる。ついでにリンゴを剥く。カップとお皿をもってホームポジションに戻

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イヌをなでそこなう

先日、道を歩いていたら、向こうからやってきた散歩中のイヌが、すれちがうかというところで、とびついてきた。といっても、比較的小さかったので、膝のあたりに前足をかけるくらいなものである。

「遊ぼう、遊ぼう!」と言われているような気がして、どれどれとなでまわそうかというところで、散歩させていた人が「こら、Xちゃん、ダメでしょ」とイヌをしかりつける。

いや、いいんです、しからないであげてください。しば

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ガンジス川のほとりで

なにか思いついて、twitterやFacebookに投稿しようと思い立つ。
(使っている道具次第で、しようと感じることが方向づけられる好例である)

そこで、TwitterなりFacebookなりにアクセスして文章を書く。

多くの場合、書いたところで「ああ、投稿しなくていいな」と思って削除する。言葉として自分の外に出してみたものの、人に見せなくてもいいかと気が変わるわけである。頻度としては10回

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驚異から始まること

今日においても最初においても、人々が哲学的思索を始めたのは驚異によってである。

こう言ったのは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスである。

人は驚異から哲学を始めた、という。

はじめてこの一文に触れたときは、なんだか大袈裟な感じがした。「驚異」という訳語に対する印象も手伝っているかもしれない。元の言葉は「タウマゾー(θαυμάζω)」といって、驚きのことなので、驚異といって差し支えないのだけ

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知識OSをつくる

どうしたら、コンピュータをもっと自分にとって使いやすい道具に変えられるか、というのがここしばらくの関心事である。

インターネットが普及し、個人用コンピュータで扱えるデータ量が飛躍的に増えたおかげで、そのつもりになれば個々人がちょっとしたデジタル・アーカイヴの管理人のような状態が現れつつある。

私もその恩恵に与って、毎日いろいろな調べ物をしたり、あれこれ見聞きして、たいへん楽しいのだが、他方でこ

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ゆらゆらさせてくれないか

ブルーノ・ムナーリに「座り心地のよくないイスで心地よさを探す」という文章と写真がある。1944年に『Domus』という雑誌に掲載されたもので、どこかでご覧になったことがあるかもしれない。

そこでムナーリさんは(と、ついさんづけをしたくなる)、一脚のソファを相手どり、いろいろな角度から心地よい座り方――というかもはや座っているのかどうかも分からない状態もあるのだがこう呼んでおく――を探っているのだ

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精神のルーズボール

中学と高校でバスケットボールをやっていた。

といっても、不真面目な部員だったし、高校の途中で体育会系のノリがいやになってやめたのだから、たいしたものではない(ただ、バスケットボールは好きだったので、昼休みはさっさと昼食を済ませて体育館で3on3などをやっていた)。

バスケットボールの練習のひとつに「ルーズボール」があった。二人一組で行う。

一人はバスケットボールを持ち、これをランダムに放り投

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人の間違いを見つけたら

人の間違いを見つけたと思ったら、まずは自分を疑え。

というのは、長年コンピュータでプログラムを書くことによって身についた習慣である。なぜそうなるのか。

プログラムとはコンピュータに対する命令のこと。例えば、コンピュータに時計を表示させるプログラムを作ろうと思ったら、時計のような画像を用意して、これを画面に表示する。そうしておいて、時間が経つごとに、つまり時間を然るべきやり方で計測して、画面に表

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可能な限り全部見ていく

今度、ゲンロンカフェのイヴェントで、安田登さん、ドミニク・チェンさんと3人で話す予定である。タイトルは「能、テクノロジー、人文知」という。

このちょっと不思議なタイトルは、おそらく安田さん(能)、ドミニクさん(テクノロジー)、山本(人文知)という対応を並べたものだと思う。とはいえ、安田さんとドミニクさんは、どちらもテクノロジーと人文知にも通じているので、1対1に対応しているわけではない。

それ

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誰が心を知っているのか

古来、人間の心や精神と呼ばれてきたものがある。

ものがあるもなにも、こうして文章を書いている私も、自分には心があると思っているし、きっとあなたもそうだろう。

そして、これまた古来、心や精神と呼ばれてきたものについて、その働きを分類しようと試みた人たちがいた。

例えば、知性とか情動とか意欲とか、理性とか悟性とか感性とか、意識とか無意識とか、欲望とか欲動とか。論者の数だけ分類がある、といったら大

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犬とすれちがう

外を歩いていると、しばしば犬とすれ違う。

そんなとき、つい犬のほうを見る。すると全員ではないが、先方もこちらを見ることがある。すれ違うあいだ、目が合う。ウォン・カーウァイの映画ならストップモーションになるところか。

ただ目と目が合うだけだし、意思疎通できるわけでもない。それでもときどき「お前も散歩か、よかったな」と言われているような気がすることもある。

昔実家で飼っていた犬は、大の散歩好きだ

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