見出し画像

PLAYERS' INTERVIEW vol.4 石井 清

ヤクルトレビンズ戸田の等身大を皆さまに知っていただく「選手が語る」コーナー。前回は2024-24シーズンのBKリーダー、沢村舜選手をインタビューしました。今回は、現在チームSNSの運用含めクリエイティブを担当している石井清選手です。チームの中では数少ない日本人プロ選手の一人で、常にチームに貢献するため日々ハードワークをしています。今までの生い立ちやオーストラリアでの生活、そして最愛なる父親との別れなど、石井選手がラグビーに向き合う姿勢を含めた等身大をインタビューしました。
(取材日:8月3日)


友達と一緒にいる時間が楽しかった幼少時代、そして恩師との出会い


(写真:本人提供)


――ご出身はどこですか?

京都府宇治市です。抹茶の美味しいところです。

――ラグビーを始めた年齢ときっかけを教えて下さい

8歳のときに仲の良い友達に勧められました。実は毎年の健康診断で肥満児って診断を受けてしまっていて(笑)。食事制限をするか運動をするかの二択を迫られたので、スポーツをすることを選びました。

――活動場所はラグビースクールでしたか?

はい、南京都ラグビースクールです。現在日本代表で活躍している松田力也選手(トヨタヴェルブリッツ)や尾崎晟也選手(東京サントリーサンゴリアス)らが在籍していました。

――初めてラグビーをしたときの感想を聞かせて下さい

正直なところ楽しいとは思えなかったです。とくにかく練習がしんどかったです(笑)。でも、友達と一緒にいることが楽しくて、つらい練習だったんですけど毎週頑張って通っていました。

――中学時代はどの部活に所属したのですか?

ラグビーを辞めてサッカー部に入部したんですけど、なんか合わないというか面白さを感じることができなかったので、改めてラグビーを続けることにしました。

――京都外大西高等学校(以下、外大西)に進学した経緯を教えて下さい

京都って伏工(伏見工業高等学校、現京都工学院高等学校)や成章(京都成章高等学校)が有名なんですが、強豪校を倒したい一心でその当時にラグビーに力を入れている外大西を選択しました。中学の恩師が外大西でコーチをしていることもあったので、意外にも迷わず決めました。

――結果は残せませんでしたが充実した高校生活だったんですね

確かにそうですね。外大西って京都の中でもものすごく厳しい指導をする先生がいるって有名だったんです。鬼コーチ(笑)の恩師・岡山先生にラグビー選手の前に一人の人間としての教育を受けてきました。岡山先生の指導ってラグビーのミスに対することではなく、そのミスは消極的であったのか、チャレンジしてのミスだったのか、などです。細かいことですが、スリッパをちゃんと並べることや、挨拶の仕方も然りです。今となっては当時の指導が私の人としてのベースになっています。

――龍谷大学に進学した理由を教えて下さい

ラグビーを続ける意思がありましたので、色々な大学進学の選択肢を考えていました。その当時の龍谷大学は、関西大学ラグビーBリーグに所属していて、Aリーグ昇格をチャレンジしているチームでした。外大西に進学したときの気持ちと一緒で、強い相手を倒したい、Aリーグに昇格させたい気持ちが強かったです。

――大学4年間は充実していましたか?

充実はしていました。同期とはすごく仲が良かったので、ちょくちょく飲みに行ったり、ちょっとしたサバイバル生活をしたりと無邪気に遊びも一生懸命でした(笑)。でも、競技面では決して満足のいく結果を残すことができませんでしたね。

――チームの戦績はどうだったんですか?

結局Aリーグに昇格を果たすことは叶いませんでした。何度かは入替戦に進出しましたが、Aリーグの力の差を見せつけられた感じでした。大学4年生のときにバイスキャプテンに任命され厳しくチームを引っ張っていきましたが、そのやり方が本当に良かったのかと自問自答しました。もっと良いやり方があったのかなって結構考えました。改めて人を引っ張るって難しいことなんだって。

大学時代の石井選手(中央、写真:本人提供)

ラグビーができる環境を整えてくれた会社に感謝


――社会人でもラグビーを続ける意思はありましたか?

もちろんです。大学卒業して三菱自動車京都レッドエボリューションズ(以下、三菱自動車京都)に入りました。

――社会人ラグビーは三菱自動車京都一択で進めていたのですか?

実は大学3年のときに、トップリーガー発掘プロジェクトというものがあり、そこで私のプレーをトップリーグに所属しているチームの方々に見ていただきました。残念ながら私の実力不足もあり所属させてもらえるチームは見つからなかったのですが、私を必要としてくれるチームがあるはずだと思って地域リーグのチームのリクルーターの方との面談をしました。

――そこが三菱自動車京都だったんですね

はい、他にもありましたが、とにかくリクルーターの方の熱意がすごく私のことを必要と伝えてくれ入社を決めました。結局4年間お世話になりましたが、新たな人生を歩みたいと思えた時期でもありました。

――退職を決意したとき、周りの反応はどんな感じだったのですか?

ポジティブな言葉とネガティブな言葉の半々でした。自分自身のやりたいことを貫くべきと声をかけてくださる方もいれば、今会社を辞めてどうするんだなどと厳しいアドバイスもいただきました。しかし、その当時もっとラグビーを追求したい、上手くなりたい一心だったので、その退職の選択はぶれなかったです。

――4年間、全力で活動していたからですね

はい、私はオーストラリアでラグビーを追求したい決意ができたのもこの三菱自動車京都で活動した4年間が充実していたからだと思っています。かけがえのない4年間でした。送別会を開いてくださり、入社当初から私の指導員であった先輩から熱いプレゼントをいただきました。最後の最後まで私の決断に寄り添って下さいました。

社会人時代の石井選手(写真:本人提供)

充実したオーストラリアの生活、妻の支えから芽生えた覚悟


――留学先をオーストラリアに選んだ理由を教えて下さい

留学先にニュージーランドを選ぶ人が多かったので、せっかくなら違う場所に行きたかったのと、年齢のことも考えてラグビー以外の生活を考えたときに、成長を感じられるって思えた場所だったので迷わず決めました。

――奥さんには相談したのですか?

いえ、誰にも相談せず一人で決めました。事後報告だったんですが、妻から「面白そうだし行こう!行こう!」って言ってくれました。その言葉が大きな支えになりました。

――オーストラリアでの生活は順調でしたか?

いえ、思った以上に最初は苦しかったですね。まず語学を学ぶために学校に三ヶ月通いました。ある程度の貯蓄がありましたが、潤沢にあるわけではなかったので働きたかったのですが、勉強とラグビーの時間を差し引いたとき、働く時間がなくて。語学学校が終わってからは色々な職を経験しました。

――どんな仕事に就いたのですか?

ウーバーイーツの配達や、スタジアムの清掃、お肉屋さんのトラック運搬などなどです。オフシーズンのときは農家仕事でブロッコリーやレタスなどの収穫サポートをしていました。

――楽しそうですね、何か思い出深い仕事を教えて下さい

やっぱり農家仕事ですね。今となっては笑い話ですが、その当時仕事をしたくて農家のオーナーさんに直談判をしたところ、私の体型をみて即決してもらいました。翌日朝4時半にきてくれと言われ、ワクワクするも緊張しながら待ち合わせ場所に向かいました。結局仕事を始めて5分でクビになってしまいました(笑)。この5分間の働いた賃金は支給されることなく悔しい思いでいて、せっかくだからレタスを引っこ抜いて持ち帰ってやろうと思ったんです。でも、なかなかうまく引っこ抜けなくて。その姿をオーナーさんが見ていてレタス2玉をもって行けって(笑)。日本じゃ考えられないです。

――ラグビー生活は充実させられましたか?

ボンドユニバーシティという大学が持っているクラブチームに所属しました。クイーンズランド・レッズの下部組織でもありましたので、トップレベルの選手と一緒にラグビーすることもできました。でもとにかく必死に活動してました(笑)。

――クラブチームに石井選手の他に日本人選手はいましたか?

今、日本でプレーしている選手で言うと、田中秀(日野レッドドルフィンズ)だったり、選手は引退しましたが三重ホンダヒートで通訳をしている増井克巳だったり、パリ五輪のセブンズ日本代表のスタッフで帯同した綿貫達也さんなど。あとは、ラグビー界から離れましたが、選手を引退した後に競輪選手になった油谷蒼もいました。感慨深いのですが、携わった仲間全員が新たな先で活躍しているんです。そんな仲間と一緒にラグビーができたことに誇りを感じています。

――ラグビーでの思い出を聞かせて下さい

ちょっとした余談話になってしまいますが、オーストラリアに渡った週末に試合が組まれていました。本当は出場しない予定でしたが、私と同じポジションの選手が怪我で離脱したんです。嬉しさの反面、完璧に準備できていませんでしたので不安もありました。結局、スクラムで何度もペナルティを犯してしまい、人生初のシンビン(イエローカード、10分間の一時的退場)をくらったんです(笑)。このことをきっかけにもっとスクラムを頑張ろうって思いました(笑)。

――オーストラリアの生活はどのくらいしていたのですか?

結局1年間だけでした。2年目のビザを取得してこれからっていうときに新型コロナウイルスが猛威をふるって、ロックダウンになってしまったんです。その当時、まだ日本はオーストラリアほどでもないからって言われたので、すぐ帰国の準備をしました。

――帰国後は実家に戻られたのですか?

一旦、京都に戻りました。帰国してすぐに所属できるチームが決まっていたわけでもなかったので、ゆっくりアルバイトをしながら次の所属先を見つける活動をしました。でも、同時にラグビーを辞めることも考えていました。

――辞めることも視野にあったのですね

はい、私には家庭がありましたので。決してラグビーを続けることに否定をされていた訳ではなかったのですが、ラグビーを続けているのは私自身であって、生活の安定を考えれば この活動はリスクしかないのです。安定した収入を得られる仕事に就いたほうが良いのかなって。

――続ける決断をするきっかけなどあったのですか?

私のように日本に戻ってきて所属先を探している仲間たちと一緒に練習を続けていくうちにもっとチャレンジできることがあるんじゃないかと。改めてラグビーに向き合う時間があり、そして仲間から教わった気がしています。誰かにアドバイスをされたわけではないのですが、みんなの行動を見ていると真摯に純粋にラグビーに向き合っているんです。そんなときにエージェント経由でレビンズに所属して活動できるチャンスが巡ってきました。


オーストラリア生活はすべての時間が学びだった(写真:本人提供)

プロとして。自慢の息子で居続けるために


――レビンズに決まるまでの経緯を教えて下さい

私のエージェントと太田(晴之、GM補佐兼コーチングアドバイザー)さんと繋がりがあり、当時チームの補強ポイントでもあったフロントローの獲得に動いていたこともあり練習生として参加し無事に契約まで至りました。

――住まいはどこに決めたのですか?

埼玉県です。関西人のプライドで絶対に関東には住まない!って思っていましたが(笑)。住めば都ですね。かれこれ4年が経過しようとしています。

――加入当初に感じたレビンズの印象を教えて下さい

選手のほとんどが社員選手であって、日々ハードワークしているなって思いました。改めて素敵なチームに合流できた喜びを感じるとともに、プロとして何ができるだろうかって日々考えていました。

――どんなことを考えていましたか?

プロとしての自覚だったり、このチームに溶け込むには何をすべきかなど明確な答えを持っていなかったです。社員選手はフルタイムで働き、クタクタになりながらもハードワークをしている、、、私といえば日々フレッシュな状態で練習に向き合えていましたし。だからこそ、チームのためにできることを必死に探してラグビーでもラグビー以外のことでも積極的に行動し続けようと思いました。

――プロラグビー選手となり石井選手のラグビー観に変化はありましたか?

大なり小なりの変化はあります。1年1年結果を求められる世界なので、まずは結果を残すことを意識しています。ただ、結果を出すことがすべてではないと思っていますし、チームに良い影響を与えてこそだと思います。また、最近意識しているのがセカンドキャリアについてです。この生活が生涯ずっと続くわけでもないと思っていますし、次のステージのことを今から考えていかなければなりません。何をするのか、何がしたいのかを。そこがストレスになるくらい考え込んでしまっていましたが、今は色々な人と会話したり、オンラインで大学に通ったり。もうちょっと肩の力を抜いてポジティブに考えようと思っています。

――社会貢献も積極的に考えていらっしゃいますが、どんなことをしていきたいですか?

元日本代表の廣瀬俊朗さんがALS治療法研究への支援を呼びかけている活動「チャレンジJ9」を発足メンバーとして活動をしています。実は私の父親がこのALS(萎縮性側索硬化症)で社会人1年目の夏に亡くなりました。難病指定されている病気で、患者家族の悲しみは想像を絶します。また根治治療はまだ見つかっていなくて、支える家族の大変さを肌で感じました。

――母親がずっと支えられていたのですね

はい、そうです。私は寮生活を送っていましたので、すべて母親が看病をしていました。本音のところ身内ですが、すごく大変だと思います。私たち子供の前では気丈に振る舞っていました。

――父親もラグビーが大好きだと聞きました

はい、大好きなラグビーを私がずっと続けているので、どこかで安心していたんだろうと思います。だから、私が選ぶ道に常に賛成をしてくれていました。今もどこかで私を見守ってくれていると思います。

――父親との思い出は何かありますか?

思い出というか、私の心に焼き付いている言葉があります。治療を続けていても、徐々に筋肉の機能が働かなくなり、遂に心臓がとまってしまうので人工呼吸器の装着を求められました。装着を意味するのは、声が出なくなることです。二度と会話ができなくなるのです。最後の会話を父親と二人でする時間があり、『自慢の息子』だって言ってくれました。今まで父親との会話は小っ恥ずかしい気持ちで、そんなに深くは交わしたことなかったですし、父親にとってどんな息子だったのかって思っていたので。大泣きしました。

昨シーズン後半は怪我に悩まされる(写真:土居政則)

私たちと共に戦ってほしい


――2024-25シーズンはリーグワンで戦います。参入決定したときの気持ちを教えて下さい

チームとしても私としても非常に素晴らしいことです。ワクワク感もありますが、試合のグラウンドに立つまでは実感として湧いていないです。試合で戦ってこそリーグワンの選手って胸張って言えるんだろうなって思っています。だから早く開幕してほしい気持ちが強いです。

――今までの地域リーグと違い、遠征もありますね

はい、今までは関東圏内の試合でしたので試合会場に足を運んでいただけないと私のプレーをお見せすることが叶わなかったです。しかし、リーグワンであればジェイスポーツで試合を放映するので、遠く離れた地元の仲間にも私の姿を届けることができるのでありがたいです。

――新規参入元年、どんな戦いをしていきますか?

もちろん優勝を狙っていきたいと思います。決して叶わない目標ではないと思いますし、どれだけこだわっていくかが重要だと思います。高校や大学時代は、強い相手に勝利したい気持ちを持ち続けていた反面、どこかで太刀打ちできないことも頭をよぎっていました。しかし、このチームならって思うんです。ただ、簡単に勝利できる相手ではないです。どのチームも手強い相手ですね。

――ファンの皆さまに向けてメッセージをお願いします

得体の知れないチーム(笑)ですが、いろんな環境で活動している選手らが集まっているチームです。知れば知るほど面白いチームですので、ぜひファンになってほしいと思います。ご声援を送り続けて下さいと言うより、ぜひ私たちと一緒に戦ってほしいです。またヤクルトグループの社員の皆さまには、このラグビー部を支えていただけて本当に感謝です。ありがとうございます。私も別のチームで企業スポーツチームに所属していた経緯がありますので、グループ社員の皆さまの支えの重要性を感じています。会社にスポーツチームがあることって素晴らしいと思います。グループ社員の皆さまも一緒に戦ってほしいです。我が物顔で会場に足を運んでほしいと思います。

――ありがとうございました


今シーズンの最初の試合はほろ苦い結果に(写真:土居政則)

取材後記

自分自身を貫いてきた石井選手のラグビー人生が手に取るように理解できたインタビューでした。実直であり照れ屋さんで仲間思いの素敵な選手です。オーストラリアでの生活で改めて感じた日本人の良さ(ひたむきさ)を持ち合わせ、常にチームのために体を張れる石井選手はレビンズを愛してやまないのです。最近のマイブームを聞くと、田舎に行ってのんびりすることだそうです。

取材・編集:広報担当
写真:土居政則、本人提供


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?