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「自由」について考えていると到達地点はごった煮になった

こんにちはヤク学長です. 最近の興味の一つ「自由」についてです.

自由とはいったい何なのでしょうか? 「自由」を調べてみようと思い, 現状までどんな人物が, どんなことを言っているのか検索してみました. すると, 情報の波に襲われ錯乱….しかし、気合で今回は簡単にまとめましたので早速始めましょう.

先ず, 「自由」は哲学用語であるため, 哲学家や思想家にどんな有名な人物がいるのかということからです. 今回は最後に出てくるシラーの発現に着目します. 

1. 西洋の哲学者・思想家

➀イマヌエル・カント

18世紀:プロイセン王国(ドイツ)の哲学者, カントの3大批判のなかの第一批判として「純粋理性批判」というものがある. このなかに「自由」について書かれている. 簡単に解釈すると「認識する」理性は認識できる範囲外にあることを起点にしているとのことだ/

➁J.S.ミル

191世紀: イギリスの哲学者「自由論」が有名である. 自由はまた他者の自由とも衝突する. 他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならないとされる. 他者に危害を加えてはならない原則として広く支持されている.

➂エーリヒ・フロム

20世紀:  ドイツの人である. 1941年に世に問うた著書『自由からの逃走』がある. ナチズムの時代の人のため, 孤独と無力感に晒された大衆は他者や指導者との関係を求めて全体主義を信奉することになるといっている.

➃アイザイア・バーリン

20世紀:イギリスの哲学者でユダヤ人, 「二つの自由概念」を詠っている.  他者から拘束を受けない自由の消極的自由と, 自己自身に対して自己実現を課す自由の積極的自由とを区別している. 結局は両方とも他者との連帯を求めるが故に全体主義へ繋がるとしている.

※「全体主義」:個人の自由を認めず、個人の思想は国家全体の利害と一致 
        するよう統制されなければならないとする思想

要するに意識か無意識での自由, 他社との関係性の上に成り立つ自由というもので成り立っていると解釈できる. 今回は, そんな「自由」を追い求めた18世紀に活躍したフリードリヒ・フォン・シラーがとても面白いことを言っているので着目してみたい. 

➄フリードリヒ・フォン・シラー

18世紀:ドイツの詩人, 思想家である. 「若きウェルテルの悩み」(もっと光を、時間よ止まれおまえは美しい)や「ファウスト」などを書いた人だ. ゲーテとともにドイツ文学の黄金期を作り上げた人物である. シラーの特徴はなんといっても「自由」を追い求める不屈の精神にある. その詩は主人公が不屈の精神で自由を追求する倫理的理想主義を劇的にかつ戯曲的に描いている.

フリードリヒ・フォン・シラー

そんなシラーの言葉の中に「物質としての束縛を少しづつ断ち切り徐々に自由になっていく」と述べた詩がある. これは, 今後のテクノロジーの進化と共に育んできた人間的肉体からの超越を意味しているとは思えないだろうか. まさに未来への予言ともとれる. 実際に人類が肉体を超越し精神的なものになる未来の世界線が現実的なものになっている. 人類と機械が融合するのか, または, 新たな概念的な様相に生まれ変わるのかは分からない. しかし, どちらにしろ自由に対する新たな思想や概念が必要になってるタームなのかもしれない。

2. 東洋の自由の発端

ここまでの流れから、自由というものはほとんど西洋特有のものだったのかもしれない. この理由は東洋の流れを考えると分かる気がする. 例えば, 日本においては「自由」という言葉が近代まで存在していなかった. 日本では昔から「楽」という言葉が意味合いを内包していた. 福沢諭吉が「自由」という言葉に変換するまではそもそも概念として存在していなかったのだ。では、西洋の発端はいつ頃だったのだろうか?

3. 西洋の自由の発端

発端はやはり18世紀のフランス革命(1792年)の時ではなかろうか。西洋の様々な啓蒙主義者たちにより自由は定義され、世界中に拡散されていった。

西洋から脈々と紡がれてきた「自由」と東洋的「自由」の衝突が起こったときに上手く融合するのだろうか. 果たして, 現代に生きる我々は「自由」に生きるということがありえるのだろうか?という疑問がでてくる.

西洋の啓蒙主義者たちに伝搬された自由は, 果たして自由と呼ぶに値しているのか. もしかしたら, 共同体的な感覚の押しつけであったり不確実・不明瞭な根拠なだけではないのだろうか. 現代の複雑な状態が抱える自由意志をめぐる問題解決を置き去りにしたまま, 今の人類が下した決定が意識であるのか無意識であるのか延々繰り返されるとしても, その先に自由などありえるのだろうか.疑問の余地は延々と残ることになるだろう.

4. 自由が内包する医療のパラドックス

最後に、ここで医療における自由のパラドックスについて考えてみよう. 医療の世界においても多様な自由を目指す声があがっている. 患者は自らの意思で選択できるような社会を願っており、医療を提供する側においても望んでいると考える. しかし, 現代の医療に浸透しつつある経済文脈からの市場化の流れが大いに妨げてしまっているといえる.

医療の現場においては、専門性が高いため提供側との情報の格差が多分に存在する. 選択の自由が成り立つための前提条件が成り立つはずもないとは思ええないだろうか. 患者は自分で自由を選択し, 受診している様に見える. しかし、結果としては他社の助言なしに真に「自由」な選択を行うことができない制限がかかっている. 

再度述べるが、現在の人類が下した決定が「意識的」か「無意識的」かはさておき, この状態が延々繰り返されるとしたら, 自由などありえるのだろうか.

いきつくところ、考えて考えて考えて、、、煮込みすぎて濃厚になったごった煮のようになるのだろう. そして, 今日も情報の波に疲れてそっとブラウザなり電脳的な精神世界をソッとシャットダウンすることになりそうだ.


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