コンクールとアドラー心理学

最近、TICCや連盟のコンクールやNコンなどが実施されていることもあり、コンクールの話題をたくさん目にする。それに伴って、いろいろな人たちのコンクールに対する価値観に触れることも増えた。

自分は、コンクールがあまり好きではない。コンクールの話題になると、心がざわざわすることも、モヤモヤすることも多い。その理由とか、自分の好みとかについて、書いてみようと思う。


合唱をする人にとってのコンクールの立ち位置は、人によってとても異なる。
中学高校など部活での合唱を経験している人は、コンクールへの熱が高いように思う。これは、中学高校の部活動の多くが、Nコンや連盟コンを目標にして頑張っているからだろう。受験を控えている中高生にとって部活動の引退はつきものだが、時期的にもコンクールが終わったら引退というところも多いであろう。そうすると、「最後にいい思い出を」という気持ちで、コンクールに熱が入るのではないだろうか。(もちろん、コンクールに出ない部活動もある。)
反面、大学以降で合唱を始めた人は、コンクールへの熱がそこまで高くない人も多いように思う。これは、大学合唱団・一般合唱団にはコンクールにでない団体も多いことが関係していそうだ。コンクールに出ない中での楽しさを模索している団体に所属していれば、コンクール以外のイベントにも熱がいくのだろう。(もちろん、コンクールに力を入れる大学・一般団体もある。)

とはいえ、大学以降で合唱を始めてコンクールに熱を入れたい人もいるだろうし、部活動で合唱を始めてコンクールへの熱が高くない人もいるだろう。こういった熱の違いによって意見が割れている団体もあるのではないだろうか。


自分がコンクールをあまり好きではない理由を考えてみる。

1. 演奏を他者から評価されることに興味がない
これは自分の中でかなり大きい。
自分が音楽をする上で一番楽しいと思っていることは、「作品を作り込んでいく・作品が成長していく過程が楽しい」という点だ。もっといい演奏にするには?もっと曲の魅力を出すためには?と考えながら、あれこれ試行錯誤することが好きだ。本番より練習が好きだ。こういう思考回路なので、「自分たちの演奏を聴いて他人がどう思うか」について興味がない。興味があるのは、「自分たちが納得のいく演奏をできたかどうか」という点だ。

2. 評価は審査員の好みでしかないと思っている
コンクールは、演奏を評価される場である。評価をするためには、何が良くて何が悪いのかの基準が必要だ。基準に対してどう足りていないか、どう良いのか、という比較をしないと評価はできないからだ。
ところが、この基準は人によってバラバラである。評価する人が何を重視するかによって、同じ演奏に対する評価も大きく変わる。
もちろん、ある程度の揃っている傾向はある。ハモってないよりハモってる演奏の方がいいとか、楽譜の指示を汲み取っている演奏の方がいいとか。ただ、それらも結局一つの価値観でしかないし、ある程度までそれらを満たすと、そこから先は基準がバラバラになる。
基準が人それぞれな中、「客観的な評価」というものはあり得ないので、コンクールの評価は最終的に審査員の好みでしかないと思う。
自分は審査員が好みな音楽をするために合唱をしたいわけではない。

3. 他の団体との優劣に興味がない
前二つとも関係するが、他の団体と比べて演奏がどうなのかということに興味がない。評価は評価する人によって変わるし、みんな好きなことして好きなものだけ聴いてればいいじゃん、と思う。むしろ、一つの基準に則って団体間に優劣をつけることは、ある種の加害行為を含んでいるんじゃないかな、とも思う。(もちろん、コンクールに出場している団体は審査される前提で出ていると思うので、コンクールの存在を否定しているわけではない。)
この点で、順位方式ではなく得点方式のコンクールはまだ健康的だなと思う。TICCや春こん。などはそうだった気がする。

コンクール関連の話題で心がざわざわする理由の一つはここにある。「◯◯に勝ちたい」というような感情は、優劣をつけようとする気持ちだ。多くの人にとっては気にならないと思うが、みんなで楽しめば楽しめるものに対して優劣をつけるという行為の加害性を、自分はとても気にしてしまう。

4. 評価に付随するネガティブな感情が嫌い
心がざわざわする、という点ではこれが一番大きい。
演奏を評価するという文化の中では、批判的な意見も多く出る。建設的な批判なら全く問題ないのだが、たまに(もしくはしょっちゅう)ただの誹謗中傷では?みたいな意見も散見される。
「◯◯の演奏は××だからクソ」のような評価という行為によるものもあるし、「なんであんな演奏で◯◯より順位が高いんだ」のような比較という行為によるものもある。他にも色々あるかもしれない。
我々は、何かを蔑まなくても何かを褒めることができる。しかし、順位による優劣がつく世界では、何かを上げることと他のものを下げることは表裏一体になってしまう。その結果、心ない批判や暴力的な意見も増えてしまうんだと思っている。
嫌いなら聴かなければいいし、聴いたとしてもスルーすればいい。良かったところだけ褒めればいいし、批判するなら建設的にするべき。それができない世界では、評価という行為はかなりの加害性を秘めていると思う。

5. 「勝つための演奏」が好きではない
これは完全に好みの話。
自分は、音楽を「ショーケースに入った宝物」だと思っている。宝物が美しくてもショーケースが曇っていれば伝わらないし、ショーケースがどんなに綺麗でも宝物がなかったらつまらない。
コンクールは「ショーケースの綺麗さ」を競う側面が強いと思う。全審査員のある程度共通の評価基準として、ショーケースの綺麗さというものがあると思う。
その分、コンクールの演奏は綺麗なショーケースだけを追い求めがちになりやすい。いかにハモるか、いかにいい発声で歌うか、いかに楽譜を再現するか、いかに統率の取れた演奏をするか、など。そこに宝物が介在しない演奏がとても多い。そういった演奏は、自分にとって、ショーケースの透明度に感心することはあっても、感動はできないことがほとんどだ。


コンクールをあまり好きではない理由をたくさん書いたが、悪いことばかりではないのも重々承知している。一つの目標としてわかりやすい。みんなで一つのものに向かっていく団結感なども生まれやすい。大会を突破した後みんなで旅行できるのも楽しい。少ない曲をたくさん練習することで密度の濃い演奏ができる。観客目線でも、密度の濃い演奏の展覧会として満足度が高い。
そして、自分は競うことも他者からの評価も興味ないが、それらに興味がある人たちがたくさんいることも知っている。だから、所属団体がコンクールに出るからといって反対するようなつもりも全くない。

ただ自分は、コンクールに臨む時「自分の中で納得できる演奏ができたか」という視点で常に考える。たとえ審査員が全員1位をつけても自分が納得していなかったら納得できないし、例え審査員が全員最下位をつけても自分が納得していればそれでいいと考える。たまたまいい評価を得て次のステージに乗ることができるようになっても、それはボーナスステージでしかない。全国に行けないからダメ、みたいな考えは持ちたくない。どこどこより順位が高いからどこどこを超えた、みたいな考えも持ちたくない。
この視点はコンクールでなくても同じことだ。コンクールでないからといって手を抜くようなことは、「自分の中で納得できる演奏だったか」という観点からすると良くないと思う。


「他者と結果は変えられない」という考え方がある。アドラー心理学の考え方だったかと思うが、違ったらごめんなさい。変えられないはずの他者や結果について考えるとそこに執着が生まれて幸せになれない、というような文脈でよく出てくる。
自分はこの考え方はとても的を得ていると思う。他者に対して不平不満を言う間に、どうやったらその現状を変えられるのかを考える方がよっぽど建設的だし、みんなが幸せになれると思う。
コンクールの結果というものはまさに、他者との比較で結果を出すものであり、そこに固執してしまうと永遠に幸せになれないと思う。他者との比較ではなく、過去の自分と比べてより良くなろうとする方が、健全な成長ができるのではないかと思っている。

結果を求めようとすることは、幸せになれないかもしれないが、悪いことではないと思う。ただ、気をつけないとすぐに、他者を陥れる方向に考えてしまうこともある。そうなってしまうと、その考え方は悪いことになってしまう。そうならないためにも、他人と比較するのではなく、自分の中で比較する習慣を身につけていくべきなんだと思っている。みんながそうできる世界なら、誰かから誰かに対する心ない言葉を目にすることはなくなるのではないかな、と心から思っています。


色々書いたけど、自分がしたい音楽はつまり、
・結果のためではなく、作品の表現のための音楽
・聴衆からの評価のためではなく、自己評価のための音楽
・本番のためだけではなく、過程も楽しむための音楽
といったものだと思う。他にも条件は色々あると思うけど。
私たちは一緒に音楽する相手を選ぶことができます。似たような考え方の人たちと、たくさん音楽をしたいなぁと思っています。

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