2507文字、奪い合い世界を修正する方に与してると言えるには、個人間等の差異や既存の文系権威に対してどういう態度でいるべきなのか
2023-5-005
個人間であれ組織間であれ国家間であれ、内在性質に対しても外在性質に対しても代替利かない部分だけを引き受けてる主体同士の間にある差異は修正余地なし、そうでない差異は修正余地あり。
今何の差異に着目し何の差異を無視するか(今どのような次元設定を採用するか)は現局面が持ってる性質次第。
これらの観点から見て差異に対し反応が過大過小であれば、それは帰属操作(奪い合い世界)への加担であって、
取り合う価値はない(知性や倫理や美意識が帰属修正として働いてない)と判断しましょう。
とはいえ欧米含め、個別性が根拠になる局面(文系的局面)と相性の良い理解力(対象の個別性が疑似化してないかどうか、
端的には、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされた結果のものかどうかの区別)は教育してもらえない一方で、
相性の悪い理解力(理系的局面と相性の良い個別性捨象系)だけが教育される
(この傾向と整合的な文系権威による、個別性が根拠になる局面での根拠の内実確からしさ検討への阻害がある)環境ですから、
上の観点を機能させる(例えば、加担するのが、上の判断を政治経済に持たせる事でそれらが帰属操作ベースとならないよう防ぎにいってる側になる)には、まず自分が代替利かない部分にしか応じない対環境
(外在場へのその疑似でない個別性に即した秩序からの乖離部分込みの肯定も、乖離部分以外込みの否定も避ける態度)を獲得する必要があるので、
場が取り上げる事を要請してる差異と割り振りとが一致してる状態を支持する、
という意味でのフェア志向(ドーピングによる金メダルのような茶番やそれを真に受けた人達の為す冤罪的な低評価が含まれてしまう価値付けを、茶番や冤罪として扱う方針)を採用しましょう。
(場の性質に対する同種の他との共通要素捨象を機能させられるなら、後は算数の文章問題や理科の実験に取り組む小学生が、必要な差異だけ取り出す次元設定や形式を用意するのと同じ処理なのにもかかわらず、
下の逃げ回りが可能である事から分かるように、文系教育では問われてこなかったフェア志向は、
仮説改善の上限化に必要な具体化精度確保した検証情報に相当するものへの志向、
つまり、特定の文系事象に関して持ってる抽象具体関係構造の像としての理解や実力の上限化の要件でもある為、
疑似化から自身の個別性をその上限まで解放する作用もあるので、当然その解放が幸福感含めた感覚選抜の基準にも言えるだけでなく、
幸不幸の有り様を個別性として捉えた場合の、その有り様に対するいらぬ振り回されを抑制する効果の不随が、
個別性をフェア志向で保障するだけとの態度には期待できるように思われます。)
知性や倫理や美意識の権威であろうと、主観などの個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性内実無検討に対する糾弾
(場と取り上げ差異との不一致に対する修正要請、内実次元の確からしさ確保を表層次元の洗練に先立たせる生要請、上で見た教育次第で小学生でも十分持てる能力の要求込み)から逃げ回ってるなら
(対立関係の解消であれ保存であれ、対立関係を構成してる個々に、同種の他との共通要素捨象に十分さらされてないものが含まれるのを許してるケースは、この場合の糾弾対象なので、
その種の解消や保存の一方か両方の側面持つビッグネームなり理念なりを根拠として持ち出した時点で、糾弾に対しごり押しでもって逃げてる形に思われます)、
ガリレオが数学で自然を説明し、同種の他との差異要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消を厳格に問う状況齎した展開の、
文系版の達成を妨害してる側(茶番を真に受けた評価体系持つ文系空間の保全)に与してると捉え、
逆に、権威が受け止め改めてくれるなら、場の疑似でない個別性の保障に、管理者側プレーヤー側それぞれの立場からコミットする秩序観を踏まえた他方への要求が通ったパターン
(ちなみに、先に二つの糾弾対象が片方でも残ってる段階ではまだ近代と見なすべきだろうし、
修正余地あるものへの具体的対応は、精神的に距離取るだけであれ直接修正しにいくのであれ、下で言う実存が具体化条件であれば修正余地なし)と解しましょう。
その文系版が達成された文系空間では、持つ者持たない者によらず、各人のここまではできてここから先はできないという線引きの根拠が、代替不可能な内外事情にしか応じない実存ではない場合も、
哲学者はじめ、過去や現在の文系者の見せる対真善美や対無限者の中身が、理想を犠牲にする程度を課されてる条件下での最小にする現実としての同実存をもっての対峙ではない類の、理想現実の対立関係である場合、
特に、自己や社会や他の何らかの文系側面を修正する力が何々にはある的話の中に、より確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害を最小にする同実存への志向が含まれてない、
言い換えると、有限の与件性故に真善美との間に生じる不可避な距離の問題を、
通用領域の広狭と確からしさとの相関が設定観点の下で持ち出されるだけ、という抽象物と具体化条件の関係から成る認識構造における、
その相関を設定観点に対しても問うだけでなく、上で言う阻害最小の下で問う枠組みに置き換えてない、
つまり、帰属関係についてのこれ以上修正できないと言えるか言えないかを事実上問わない対内実のせいで、
対有限性が、過剰否定や過剰肯定の側面持ってしまう分だけ疑似問題疑似解決に陥ってる場合も、
修正の余地ありとの位置づけに、抽象化具体化が不十分なのに正当化してたり、受容に値しない状態を値する状態へと持っていってるつもりになってる事例との位置づけに、しっかりとなるはずです。
また、戦える者戦えない者によらず、外在場の疑似でない個別性に即した役回り割り振りと関係なく振る舞ってる事態の修正が、
余裕あってなお図られないまま、少子化などの赤ちゃんレベルの保護対象者が絡んでくるテーマですら、話が展開されてしまう事もなくなるはずで、
逆に言うと、達成されない限り、抽象化具体化の不十分さの保存に加担してる側の文系権威や主張の誇大広告化による、先の茶番と冤罪の発生は避けられません。
ご支援の程よろしくお願い致します。