見出し画像

何らかを嘆く機会があった人の数のわりに、負わせたり負わされたりが安易に展開される世界が保存されたままである原因を、検討不全(哲学不全)に見て

2021-5-005

フェアを越えて誰かを助けるのは、相手がアンフェアに何かを得た形になる以上、帰属が修正されるべき状態に陥らせてる形だとして、

自己を助けるケースにも同じ話が言えるとするとそれは、
いらぬ飛躍を除去する働き(帰属を修正する働き)としての知性が押さえ込まれてしまってる類の倫理を、他者に向けてるようなものであり、


場に即してる(価値付けを場に託してる)という意味で不当でない扱い(フェア)、いらぬ飛躍のない扱いを、
場に置かれたものが受けるのを望む反応の現れ、という内実(通用領域の狭いものを広いもの扱いしない態度)でないならば、

表面上利己に見えようが利他に見えようが、知性不全の結果の形骸と見なせる
(逆に言うと、その内実の保障結果であるならば、どのように見えようが問題ではない)、
そう言えるだろうに、実際にはそのようには捉えられてはいません。


結局この問題(自他救済が割り振り原理への検討を介さないスタイルの常態化)も、

善く生きるという生の内実的確からしさに焦点を当てる事で、生や死という表層形をもって肯定否定する表層形根拠の問題意識を捨象するスタイルが、哲学の最初期から提示されてたと見なせる以上、

その提示以降も、例えば、利益や損失に対する問題意識(能力獲得に際するいらぬ特化への態度の有り様含む)の傾向(変遷)から明らかなように、

有限性の不可避性が確認された時点で、有限性の内実の確からしさへと焦点(通用を行き渡らせる対象)を移行する処理として、

その提示を一般化し、対象理解の作用に組み込む事がなかった、
その上、近代性枠組みの実績もあって、内実差異不問の事実上の規準化が文系域でも許されてきたという、

哲学領域でのある種のミス(表層形次元に検討を留まらせない働きも、哲学は持ち得たのに機会を逸し続けてきた)の現れと言える、少なくとも、その側面を持つはずです。


(通用が行き渡ってない感じのするものを選ばない、受け入れない事で自身について行き渡ってる状態を維持する反応が、

例えば、嘘や演出も必要な時があると認めた時点で、加工の有無自体を論点から外し、
局面と加工程度との一致問題へと話を持ってく、抽象化具体化の精度最大化によって代替不可能性を限定作用に対し付与する問題に話をまとめてしまう、

そうした反応として現れないとしたら、実態としての不自由状態を自由だと勘違いしてる形なわけで、

実際、表層形自体の優劣なり通用領域広狭に対し、そこを取り上げる事が要請される局面もあるに過ぎないとの扱いがどの表層形問題においても可能になる、つまり、囚われずに済むのは、

帰属の修正が場と着目差異の関係に対して働いてる場合、場の表層的要素にも帰属がある形に有り様が規定されてしまうのを防ぐ働きがある場合に、限られるでしょうから、

知性や倫理が帰属の修正の働きを損なわされてる形骸状態にある証左、形骸状態に疑問を持たない水準で検討が止まってる証左でもあるでしょう。)



そして、そのミスは哲学自身を矮小化(符号反転や過剰否定で良しとしてしまう分離センス縛り)なり形骸化なりさせてきた
(内実に疑問持たれるべきものがそうでないかのような待遇を強いてきた形に結果的になってる)原因でもあるでしょう。

実際、哲学が辞書等に喧嘩売ってる形になるケース(逆説的ニュアンス程度も含む)に関して、
辞書を異端審問的に用いるケースに対し、場の表層的要素込みで合わせる類(場を荒らさない類)の空気を読むのイメージを重ね、

かつ、場に合わさないパターン(表層反転)は近代パラダイム(分離で満足する内実不問傾向)内という事になるので、概念の検討をしようにも枠組み由来のいらぬ上限を負う
(全体像の拡張に伴い、位置づけのし直しが起きる点を踏まえると、より通用領域の広い枠組みを持てるに越した事ない)でしょうから、それも避けるとして、

場を荒らす荒らさないを表層形(根拠にはしない)とした時の、表層形が帰属すべき内実だろう、
場の本質のみに即した割り振り(最大限代替不可能化させた内在事情外在事情を無視した展開はしない事含む)、

そこへの支持が、検討に実質を持たせるべく先立たせるべきものとしての扱いを受けてるとは言えないのも、

先の常態化問題と同じ構造
(通用性の高い対象位置づけに持ってく帰属修正作業が、他の場の割り振り原理の下で展開されてるも同然という、
帰属の修正に先立ってる何かがある事態、帰属修正作業自体が帰属に失敗してる事態)
であるわけです。


以上を認め、
さらには、何らかを嘆く機会があった人の数のわりに、負わせたり負わされたりを安易に展開してる世界有り様が保存されてる原因として、検討不全を位置付けつつ、
以下の理解を押さえましょう。



通用量を保存しながら(通用が行き渡ってる状態を保存しながら)表層形変転してるか、そうしてるつもりでできてないか、
これが論理展開や歴史展開の論点だとして、

理系的局面での展開(同種の他との差異要素捨象ベースな、取り上げる差異の地平維持や抽象化具体化の交互反復)であれば、後者でない事は学力に比例して期待できるだろうけれど、
前者保証に関しては、それ以上の事は現状、近代性(その捨象観が持つ偏り)故に言えないのだと思います。


いずれにせよ、より確からしいものが取って代わる運動性(通用が行き渡ってる状態の実質)、限定作用(具体形を決めるもの)の不可避性、
この二つの関係性にその論点は遡ると思われ、

前者が限定作用の有り様も規定する、それによって限定があってなお通用量が保存される関係(前者が前者たるべく後者とそのフィードバックを持ち出してる、この形が実質を有してる関係)、

これで説明してる主語述語関係や自由観平等観、批判観擁護観(集団の振る舞いに見られる傾向や自己の具体的振る舞いに対して含む、批判や擁護の根拠)が、それらの帰属修正形であり、

他の説明は、帰属の修正(位置づけに関して通用を行き渡らせる働き)に先立ってる何か
(特に、局面含む場と、確からしさ差として取り出す差異の設定との合致に、場の性質に対する検討の埋没によるいらぬ上限を与えてくる近代性)があるせいで、
知性や倫理における帰属修正の働きが損なわれてる結果の、疑似的問題意識の産物でしょう。


(批判を通してなどで、より通用領域の広い、採用も可能なものを提示されてなお、持ちかつできるだけ割り引きを抑える方向に向かわないとしたら、それは、
確からしさ差として取り上げる差異の設定が、提示された者と提示した者とで異なってるからなわけで、

その異なり具合を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情の、もしくは、その拡張形である最大精度の抽象化具体化の自己についての交互反復の、
反映された設定同士の距離に抑える帰属修正作業にも、近代性はいらぬ上限を与えてる。)


理想と現実の関係(有限性の不可避性の反映)を上の関係を用いて説明した像について、
ある現実が持つ性質に対する表層的要素削ぎ落しという深掘りによる、つまり、理想を割り引く程度に関する現実を成り立たせつつ可能な最大抑制による、理想への最大接近を意味すると解すれば、

哲学には、理想現実関係に上の関係を見る枠組みからの
(その解釈がプラトンとアリストテレスのある種の合成として見える以上、彼らの時点で、その枠組みはある程度達成されてるようなものとはいえ確認される)
プラトンやアリストテレス、あるいは、カントの理論が持つズレを、反映させてる主語述語関係についての理解やその派生含む問題意識を、

主語の切り出しや主語の述語化に上の関係を見るという枠組みへと、
そのズレの修正と共に、差し替える内容(偏った捨象観を持つ近代性の乗り越えを事実上含んだ内容)の再構築こそが必要だったのだと、


そして、それは、主題を見出し具体化する作業に、上を関係を見る文脈で自由や平等が語られる状況

(置かれてる場の代替不可能な固有性に即して割り振られた場合のものを、引き受けてる有り様からの乖離具合が、
他の場の割り振り原理の事実上の持ち込みに関わる着目差異として扱われ、評価や理解に組み込まれてると言える状況)にも繋がるものであると、
言えるように思います。


例えば、包摂されてるされてないという表層形にこだわってるとしたら、それは、
既存の抽象具体の関係構造に含まれてない具体形パターンに対し開かれた態度を持ちつつ、実際に新たな具体形パターンを見出した場合には、それにも通用する形へと抽象部分を修正する、

このスタイルがヘーゲル時点で文系域に関しても提示されてる以上、ヘーゲル以降の主流含めた哲学によるヘーゲル
(提示と上の関係とのズレ、つまり、具体化の精度無視や、理想への接近についての誤解)の修正が未だ失敗したままという現状の、
救済観や自由観への反映事例(論点埋没を誘引)と言えるように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。