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2418文字、地球規模であれ身近であれ、人権主権はじめ、権利やその種の感覚で問題を解決しようとするスタイルを次善の策と見なした場合の本筋について

2023-5-001

何と何の間のものであれ、奪い合いの強弱から成る秩序を終わらせたいなら、都合を受容に値する状態へと持っていってる
(都合の反映が帰属操作を意味しない)主体有り様からの乖離部分を修正点とするべきで、

この観点では、競争から協調へといった類の枠組みも、何らかの権利を持ち出して強弱の振り幅を縮減する方針も、
乖離部分以外込みで否定する過剰否定や乖離部分込みで肯定する過剰肯定を許すものである為、次善の策でしかありません。


余裕があるのに次善の策を用い続ける過保護(余裕のない局面では成立自体を、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視する量質推移構造の不在であり、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像へと、存在成立の内実が移行しているいないという観点の不在はそのまま、上の枠組みや方針を本筋扱いする原因になる)は、

理想を過剰に割り引く現実を生きてる(林檎を数えられないなら数も数えられないの意味で、
いらぬ割り引きを抑える原理を体現してない)わけですから、対真善美や対無限者も上限化できないと想像される
(同様に、対人や対社会に際し余裕があるのに過剰否定をしてる時点で、その人の見せる真善美を踏まえてるつもりな言動には、取り合う価値がない)為、

上の枠組みや方針を本筋のように扱ってる場合、その対奪い合い世界は、真善美を背景としてない
(たとえ国際的な取り組みからの要請であろうと権威は形骸化してる)と見なせるはずです。


例えば、小学生の集団の中に、自身の都合の良さを過度に保全する人がいたとして、
その人が攻撃をする側であれされる側であれ、その人の持つ問題点はあくまでも先の修正点なので、
みんな仲良く的な発想の介入も、法的な発想の介入も、上の事情から次善の策に過ぎず、

過度でない人含め、先の修正点を修正しないまま社会に送り出すのは、せっかくの民主制や市場を、
受容に値しない都合(割り振りの根拠である実態を構成する個々事情の内実確からしさが不問、という意味で単なる需給成立)の実現装置へと矮小化する所業です
(もちろん、実態軽視な政治経済形式へと反動反発しようとも、修正点が保存される限り、奪い合い世界の外には出られません)。



なので、先の修正点修正の論点化は当然として、そこでの修正が形骸化しないよう、

内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、
これらのみに帰属がある(疑似でない帰属修正余地なさの下に立ち上がってる)と言える、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(有限性の代替不可能化の結果である有り様)における都合を、ターゲットにする必要がありますし、


その為には、対真善美がその主体像の反映と言えるかどうかを、あるいは、場の上に立ち上がってるもの
(主体を場と見れば、対真善美の具体形もこれ)が場の疑似でない個別性の反映と言えるかどうかを問題にしてない
(産出情報に含めさえしないわけで、表層の洗練としてしか質を語れない)既存の文系学問、

言い換えるなら、真善美との距離自体を咎める疑似問題化(これを過剰否定と見た場合の、過剰肯定に相当するものも符号が異なるだけで絶対値的には同じ疑似問題)の産物、
端的には、哲学の機能不全(有限性の代替不可能化以外を疑似問題疑似解決扱いする働きの不全)の産物である既存の文系学問との付き合い方(対文系教育込み)が過剰肯定過剰否定となるのを

(知性や倫理や美意識の働きが、思うに、内実の確からしさを最大化する前に表層洗練に走る事による偽装強化の側面に由来する、
内実の確からしさとしての質の向上鈍化へのケアを欠く、したがって、先の量質推移構造の不在へと導く既存の文系有り様を、過剰肯定過剰否定してきた結果となるのを)防ぐ必要があります。



そして、量質推移構造の有無と関係なく下される既存の文系空間における評価に対し、
過剰肯定過剰否定しない対教育を送る為の第一歩は、できるだけ早く(できれば十代突入前に)、

局面と着目無視とを一致させてる下での振る舞いは、受容に値するものなので拒否する側に責任があり、論点は局面の疑似でない個別性把握にあるとする平等観(他者への適正な振る舞いに関する理解)、
および、局面と着目無視とが不一致なまま為されてる対象位置づけに取り合う価値はないとする自由観を獲得する事でしょうし、

二歩目以降はそれらの獲得と地続きな次の態度をもって、(真善美からの距離自体の論点化を疑似問題扱いしつつ)真善美との接近上限化からの乖離が咎められ、
その上限化状態を紡いでく歴史展開が求められる世界を支持できてる形へと、自身を持ってく事でしょう。


何ら加工されてない状態に近づけつつ、負わざるを得ない加工に抑える(現代日本という特定時空性に合わせてる部分をできるだけ剥いでから、引き受けざるを得ない特定時空性を付し直すなどの処理)、
これらの上限化(限定理由の確からしさ最大化による、限定前後での確からしさ保存)としてしか問題を捉えない

(例えば、Aさんはこういう人といった印象獲得においても、Aさんが自身の具体化に加工の過不足を許してる分、
つまり、置かれてる場への過剰肯定過剰否定を有してる分だけ、修正余地を含んでる存在有り様として捉える、

例えば、主語の切り出しなり、修飾含む主語の述語化なりに非上限化が見られる分だけ、修正余地をテキストに見出す等)。


特に、同種の他との共通要素捨象(雨が降ろうと槍が降ろうとそれがそれである限りそれにとっては引き受けざるを得ないものという意味での、
通用が行き渡ってる個別性を取り出す処理)を用いて上限化させた加工前後の交互反復しか、

文系論理や文系(個別性が根拠になる局面)的な同一性における、受容に値する
(有限の与件性の下でなお通用の行き渡ってる状態が維持された、つまり、通用領域の広狭と確からしさとの相関という認識前提を満足させる)展開と見なさない。

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