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世界の姿(その影響)と、情報獲得や思考展開に質(帰属の操作の保存具合)を見ない量志向な理解力が文系での世界標準である事とを結び付けましょう

2021-6-005

責任負う事による不自由を単に避けるのでなく、
やむを得ないものを取り出した上で引き受けをそれに限る(負う程度自体は表層次元扱い)、この処理を対不自由とするとして、


例えば、他者なり自然なりを道具扱いするなどでの負い目としての不自由感を、何でもあり化の方向でもって処理するスタイルの下で、
外界の有り様にケチをつけてるケースがあるとしたら、

それは、内実検討への移行阻害(質を犠牲にする程度を抑える配慮の欠如)の問題

(場にその表層的要素込みで合わせるか場に合わさないかの、二択双方が持つ不当獲得の側面を、捨てさせないだけの拘りや誤解などの、
余裕の有無等の局面事情とは無関係に、表層次元に留まらせる何らかの要素の存在問題)

の一種であると考えます。


単なる(特に、内実の確からしさを最大化させてる表層形ならば、という条件で限定してない)何でもあり化は、
悪貨が良貨を駆逐する(ひいては、貨幣の意義が損なわれる)的に意義崩壊まであるわけで、

意義崩壊込みの方法論しか持ち合わせてない者による例えば、生なり演出(自己表現絡み込み)なりの意義についての言及に、
説得力(通用領域の広さ)があるようには思えませんし、


(何でもあり志向に限らず、各場の固有性を尊重していなければ、
ある場での価値付け割り振りの原理を、他の場に持ち込んでる形にもなるわけで、
都合の良い観点を持ち出しての自己正当化も、その類と言え、

特殊なものへの普遍扱いをはじめ、
現象の説明が的外れになるのをできるだけ避けたいなら、帰属の操作の受容に鈍感な有り様から遠いに越した事ない為、

自己正当化が帰属の修正に先立たないよう、言い訳能力が高くなるのを忌避するレベルでの、各場の固有性への尊重が必要だとすると、

その尊重が内容になってる平等と知性の質とは繋がってると想像されます)


社会の秩序にケチをつけながら、
学問世界のパラダイム
(特に、対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた感でしかない理解の作用に、
内実の確からしさ差を文系域でも無視する、という偏りを与える近代的捨象観)
を妄信してる形(前者の根拠に、近代性に塗れた理論を持ち出す)などの、

林檎を数えられないのに他は数えられてるつもり(数を数えるが十全にできてるつもり)的ぬるさの下で、
秩序を語る(押しつけさえする)のを防ぐのに必要だろう、


場の代替不可能な固有性に即した(その発現を阻害しない)形式や帰結(割り振られ様)を支持する秩序観と、

場の表層に合わせてる事態から場の本質に合わせてる状態への移行でなく、場に合わせてない状態へと移行する
(現象は内在外在の性質統合であり、この場合は、外在の反性質と統合する)スタイルとは、
整合しません。


もちろん、フェア(各場の代替不可能な固有性に即した割り振りへの支持)を越えては(自他を)助けない救済観

(内面世界の代替不可能な固有性に即してない欲求に、負い目等があっても応えるのでなく、
疑似的自己からの解放意味する、それに即した欲求への修正支援の形で応える対応も、条件次第ではあるそれ)
とも整合しません。



その場にとっての代替不可能な固有性とは言えないものが、その場での割り振り原理となってる事態を、

他の場の割り振り原理の侵入と見た上で、
平等の失敗(各場の固有性への尊重不全)や自由の失敗(疑似でない固有性の発現阻害)として修正に値するもの扱いする事と、


いらぬ不幸の発生黙認(この場合、内実の確からしさ差を文系域でも無視する処理に由来するいらぬ負わされ)と引き換えの秩序の一種である近代パラダイムを、
妄信してる(通用してない部分を潰す働きを放棄してる)知性やその産物に対して、

帰属が操作されてる部分を保存しながら思考を展開し量だけ稼いでる知性不全として修正に値するもの
(紐づけ先をより確からしいものに、できれば、より確からしいものが取って代わる運動性を他に先行させてる状態に、差し替えるべき代物)扱いする事とを、


同じ構造から成る個々具体
(確からしい観点への、何らかの保護を先行させないレベルの志向の点で繋がってる、倫理と知性の表裏性)として見ていく必要が、

確からしくない(通用領域の狭い)ものをそうでないかのように押し付けてくる諸々


(例えば、それがそれである限りそれにとっては引き受けざるを得ない要素かどうかに関する検討不全故に、

感情依拠はじめ、そう言えないものをそう言えるかのように偽装してる形となってるものだったり、
局面の代替不可能な固有性に即してない反応を過大過小扱いできない者によるセンスの良し悪し判定だったり、


それこそ、各場の固有性の差異への尊重の欠如が、種と固体のような、抽象次元と具体次元の差異で起きてる、
当然、抽象化や具体化条件割り出しの精度を論点とせず、先のぬるさの保存にも繋がるレベルの検討不全物、

つまり、家電を叩いて直すレベルや、論理を弛緩させるだけで自身の固有性に紐づけた事にする甘やかされレベルに留まってる、思考や感覚による対象位置づけ結果を、

帰属の修正に関して必要な検討を終えたもののごときニュアンス伴わせる事で押し付けてくる言動だったり)


に振り回されない為にも、あるでしょう。



繰り返すと、
Aさんが自己の有限形(できるできない、持つ持たないの有り様)に関して、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じた結果
(拡張して、最大精度の抽象化具体化の交互反復としての歴史性として)のそれに限ってないなら、


仕方なくないものを仕方ないの体で外界に何らか(例えば、対象位置づけの精度不足)を負わせる形となってる為、


他者なり自然なりを尊重してるつもりであるとしたら形骸に他ならないし、
対象尊重がそう言える以上、自己の何か(自分で選んだ思想すら)を尊重してるつもりでできてない生を紡いできた、とも言えてしまうわけです。



なので、自分で自分にいらぬ割り引きを課さない為にも、

有限形について内実の確からしさ差(帰属が操作されてる形のものを許してしまってる程度)を検討する能力は埋没させられる、

結果、不当獲得(能力獲得や思考展開含む)をスルーする一方で得る資格を開く(奪う者だけから成る世界に近づける)差異捨象が、都合の良い世界じゃないから嫌だレベルの反応にも正当化を許してきたパラダイム

(同種の他と共通要素捨象系の論理を埋没させてきた、当然、主観にその捨象を求めずに済ませてきた近代性に、束縛されてる知性や倫理)

そこからの脱却を、

自他に、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情に応じた有り様を越えない範囲でではあれ、働きかけていきましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。