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2741文字、現実をそのまま肯定する系(内実不問な肯定の類)を論理性の不備として扱おうという話

2024-5-004

帰属修正が獲得喪失に先立ってる人を増やせば増やすほど、奪う奪われる関係の発生機会は減るわけなので、
帰属修正を先立たせるという条件を付さずに掲げられた平和概念は、奪われてる者の上に築かれた平和をも含む内容であり、

中途半端である為に真に受けてしまうと、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関から見て、確からしくないものを確からしいものかのように扱わせる茶番
(通用の行き渡ってないものを行き渡ってるものとして扱ってる、という意味で不備のある論理性をもっての押し通し)、
および、帰属修正が先立ってる人を増やすという本筋の埋没(本筋への攻撃もあり得る)が成立してしまいます。

(例えば、神の名の下に愛なり何なりを内実不問なまま推奨すると、内実の確からしくないケースの帰結まで、
内実を確からしくする処理を怠る原因となってる諸々の責任でなく、神の責任となり、この擦り付けの分だけ神に対する尊重も形骸化してるわけで、

内実不問は文系的局面では責任転嫁という帰属操作の肯定に等しく、この場合で言うと、
内実不問なせいで、表層形が平和であるという事態が奪う事の正当化を可能にしてると言えます。)



他の理念についても同じ構造が言えると解し、他者尊重(自己尊重であれ話は同じ)も帰属修正が先立ってる内容へと修正しましょう。
この場合、他者尊重は、個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じてない実存

(存在するのと引き換えとは言えない要素を存在に帰属させない事で存在を根拠にしてる類のものが事実上の偽装と化してる事態を防いでる形なので、帰属修正が存在立脚に先立ってる状態)からの乖離部分については、
尊重しない(他者に対する否定も、この実存部分までは否定しない)内容となり、

数を数える等の理系的局面も外在事情としてあり得る為に、同種の個々の差異が無視された扱い
(実存の内実無視)も局面に即してる限りにおいて受容してる他者有り様は肯定されます。


ところで、歴史は常に紡がれてしまっていて、我々がこの事実に対しできるのは、
言葉の意味合いやニュアンスが使われ具合(使われなさ具合込み)を受けて変遷するように、
具体化とそのフィードバックである抽象化の交互反復として歴史性を捉えた場合の、抽象化具体化の不十分さ解消

(限定を受けてない状態の準備、その状態にとって引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらをもって具体化に際する通用領域喪失を、限定理由の不可避性で補填する処理として解せば、先の意味での不備のある論理性の解消)のみであると考えます。


これと同じ構造を存在と認識の関係は持っていて、何かが在るとは、ある具体化条件においてはこういう具体形になるという連関の束であり、
対象理解が、この束の把握に加え、具体化精度の高低を踏まえてる場合に獲得可能となる、

高い具体化精度の連関のみから成る為にその時点での修正余地を持たない有り様と言える像が、
Aが在るという時のAが疑似化(Aとは事実上の別物で、尊重してもAを尊重してる事にならない事態化)してない姿、つまり、在るが形骸化してない状態(Aが在るの成立地点)であって、

有と無が別物である以上は存在に先立つと言える有限性が、無限性(通用領域は常に上限)にとってフィードバックに値する状態
(言わば、仮説の通用性を上限化するだけの高い具体化精度を持った検証結果に相当してる状態)でもあると考えましょう。



注1

通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえ、通用が行き渡ってる状態を選ぶ、
ただし、この相関を持ち出す観点次第で通用が行き渡っているいないの判定は変わる為、観点設定にもこの相関を見る必要がある、

論理性はこれを整合の観点から捉えたものであり、個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)を、
個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象(個別性の取り違え最小化)を観点に組み込む必要があると考えます。

(認識場の上に立ち上がってる秩序について、あるいは、社会の上に立ち上がってる秩序について、
場の性質に対する十分な後者捨象の結果を損なっているいないで評価してないなら、

文系事象に関して具体化精度を修正する能力は機能していませんし、具体化精度の低さは検証能力の不全を意味するので、
原理なり本質なり、抽象次元に関する仮説の改善を上限化する事もできません。

ちなみに、内在場と外在場に同じ原理を見ようとしない態度は、理想を割り引く程度を最小にする現実という枠組みに対現実を落とし込む上での阻害要因ともなる、
現実的事情を軽視する実存というカント的なご都合主義の、少なくともそこに見られる、林檎は数えられるのに蜜柑はできない的な原理不在の原因でもあると思われます。)


デカルト以降の文系空間は、後者の組み込みがない点をもってデカルトを修正対象とするまで、
論理性の不備がまかり通る環境(文系事象の具体化精度高低を踏まえられない状態が標準)であると解しましょう。

個別性が根拠になる局面での個別性捨象を不当合理、同局面での個別性の取り違え最小化の欠如を過剰特殊とした時の、
過剰特殊への批判にかこつけて不当合理を押し通すロジック、不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジック、


この二択になってる近代以降の欧米文系を真に受ける理解力は、その影響力が強まるほど、個別性の取り違え最小化によって得られる類の普遍通用性への理解が、
言い換えるなら、雨が降ろうと槍が降ろうと存在する以上は引き受けざる得ない、との位置づけを根拠にできているいないの差異に関する問題意識が

(当然、A領域には注力する、B領域には注力しない、といった特化方針が標準的なものであろうとなかろうと、
存在するのと引き換えな要素の反映であるなら修正余地がないものとして扱い、
存在するのと引き換えでない要素の反映を含んでるなら修正余地があるものとして扱う反応枠組みも)、

欠けた世界になってしまう、したがって、対文系事象においては通用が行き渡っているいないについての判定のズレが修正されない世界
(観点を取り違えた優劣付けの受容を強いられる環境)に、自分にとって価値のあるものも置かれてしまうと認めましょう。


(認識場の性質が先の実存の帰結でなくとも肯定されてるなら過剰特殊に対し許容的と言える為、
理想を割り引く程度を最小にする現実として先の実存が、神との対峙に際して、あるいは、真善美との対峙に際して要請されてるとは言えない近代以前の世界も許容的と見るべきでしょうが、
近代以降は、科学の在り方や個人の精神を分離した成功体験によって上の二択関係が洗練された形で立ち上がってるように思います。)

ご支援の程よろしくお願い致します。