1567文字、既存の文系権威(教育論込み)に惑わされる事なく、知性倫理美意識を育成する為に
2023-9-003
例えば、在庫管理やポートフォリオについて十分研究されてきたように、経済面だけ見ても、
いらぬ特化への鈍感さが継続性に対し不利に働く点は、実社会において踏まえ済みと言えるでしょうから、
実社会に出るにあたって、少なくとも、いらぬ特化への鈍感さに対するリスク扱いは押さえておくに越した事ないはずですし、
このリスク扱いを原理レベルで持つ事について阻害してる形の言動は、他者軽視の一種と見なせるのでないかと疑います。
しかし、能力なり情報なり可能性なりの獲得喪失と、代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(個別性に対する仮説改善作用による疑似化除去が内包されてる形)とを整合させるつもりのない獲得喪失観が、
教育論含め支配的ですから、成長環境自体が上の意味での阻害や他者軽視を含んでるようにも思われます。
なので、就学以降できるだけ早く、状況上自然な振る舞い(表面上は大騒ぎや見て見ぬ振りに見えても、
過大反応と過小反応は同時否定されてる振る舞い)であれば受容に値する(負わせるや負わされるは妥当)とする方針、
さらにはそれを拡張した、局面と着目無視との合致の観点から自他を評価し、合致の採用の下で自他に接する、
という上の実存の原型ともなる内容の、場の尊重を先立たせる方針の内面化を達成する事で、
真善美との間の形骸な関係性改善試み(理想ポジションにあるものを有限性故に割り引かざる得ないとしても、
割り引く程度を最小に抑えているいないに関する責任、言い換えると、上の実存からの乖離に重なる、
各々が課されてる条件における上限からの乖離についての責任はある、との観点を組み込んでない関係性改善試み)から、
知性倫理美意識の育成を守れてる状態を構築する必要が、特に対教育に関して言えると考えます。
(責任回避傾向は、自身が持ってる帰属修正能力の一部を帰属操作的にしてしまうでしょうが、
己との近さや権威との近さなどを理由に、上で言う責任を不問とする領域持ってしまうご都合主義は、
原理抽出含む帰属修正の働きとしての知性倫理美意識を鈍らせ、テキスト解釈の不全まで引き起こすと考えるべきかと思います。)
例えば、Aができないという状態(獲得喪失有り様)の人がいて、その人が上の実存を生きてきた結果、
つまり、有限性(内外境界発生を意味する為、有無の差異や肯定否定の差異にとっての、
ひいては、存在や論理法則にとっての前提)と無限性(より確からしいものが取って代わる運動性)との阻害ない統合の結果に、
Aができないのならそれは、上限としての確からしい有り様が、その時点でのその人においてはそういう表層形として現れてると解せ、
上限としての確からしい有り様なのでそれ以上を求めるのは応答不能な過大要求である為、対象を不当に扱わない方針の下では、それ以上を求めようがありません。
一方で、Aができないという事態が、その人の置かれてる場においてどのように扱われるかは、その場の個別性次第の話であり、
割り振り原理になってるものが疑似化してる場合、ドーピングによる金メダル的な茶番を意味してしまう為、
対象を不当に扱わない方針の下では、場に置かれてるものが受ける扱いについて、場の疑似でない個別性の尊重の反映であるかどうかが論点になる
(この論点は上の実存を生きてる者にとっての対外在にも言える為、この反映である整合を内容とする秩序の受容拒否は、上の実存を生きてない証拠になる)わけです。
ここで、過去に生きた誰かについての、人生を通して受けてきた扱い(死込み)を位置付けるとして、
以上の観点を機能させられるかどうかで、その扱いにどれだけの帰属修正余地があったのかの把握に関する精度は雲泥のように思われ、
これは情報が上で言う茶番的扱いを受けてないか受けてるかの差異に相当すると考えます。