無題0

共産思想やそれへの共感(部分的にでも)にどう対処するべきかについて考察(投稿用の再編成版)

2019-004'(004の投稿バージョン)
共産主義に関するスレにて


弱者の内実(フェアアンフェア)を問わずに救済するという、
倫理的勘違い(弊害必至な反動的解決行為)の一種として、共産思想やそれへの共感もあると思われるので、
フェア(場の本質に即した扱いへの支持)を越えては助けないとの方針が倫理整合的な救済であり、
所有権や統治権はじめ、近代以降の権利は、その方針の付随により欠陥を塞ぐ事ができる、
との理解の周知が対共産主義の本筋であると考えます。
人種の差異への言及を局面との一致不一致と無関係に咎めるのでなく、一致ケースに限るとの修正と同じです。

(倫理志向者に既存倫理の整合領域の狭さに対し向き合ってもらう事は、
信仰者に信仰の実質と矛盾する制度や教育への修正意欲を持ってもらう事と共に、
現行世界の健全化にとり欠かせない要素のように思われます。)

より根本的には、物質側面や実践への着目を反動
(物質事情や実践局面に対し、単なる外在場の性質として以上の価値を与えてる)と見て、
場の本質にのみ合わせた有り様の採用や、場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる管理を、
解決行為とする方法論の不在という、欧米が持つ反動的な解決センスの原因から対処する必要があります。

また、対共産思想に限ると、ヘーゲルの正しい乗り越え方
(絶対者の自己実現という枠組みの類型からの歴史観の解放)の問題は不可避でしょう。
プラトンやカントにおける分離(加工の不可避性)に対しては、
内外分離(有限性)を与件(内外の性質統合が現象)として認めつつ、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究、問われるべき事(場の本質)と捨象(着目無視)の合致配慮、
この両者の相補性から成るいらぬ飛躍の除去を、
施された加工(場の本質にのみ合わせた具体化)に引き受けを限る事をその解答とすべきです。
(内在性への局面に合わさせる作用を理性と見れば、具体化条件の割り出し精度が高い程、理性は妥当。)

より確からしいものが取って代わる(通用領域が拡大するか最大限確保される)運動性を、
第一原理として認めるにせよ、それはあくまで有限性の代替不可能化として働くわけです。
(有限者が負うべき責任に当たるそれは、無限と有限の関係正常化の働きを信仰と見れば信仰と矛盾せず。)
その最大限追究を微視的とした場合の巨視としての、抽象と具体の(例えば、仮説と実証の)行き来を、
あるべき歴史性(抽象と具体は価値対等)と規定する事が、
反動でないヘーゲル(抽象重視な動性)の乗り越え方(確からしさが向上するにせよ、分離自体は保存)、
そう解しましょう。

確からしさそのものである無限者(絶対者)はその運動性により常に自己足りていて、
その運動性を成り立たせるべく要請されてる有限者(抽象と具体の関係における後者)による、
無限者の持ち出し方の成否(確からしさが何について問われてるのか、という限定の仕方)は、
上の有限者が負うべき責任の果たし具合によるという内容の、有限者の自己責任な側面を歴史観に含めれば、
抽象と具体の行き来にいらぬ飛躍が含まれてる歴史展開(場の本質を損なう統治形式の登場)は支持されないはずです。

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