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ここ百数十年の哲学も持ってる誤解について(既存の問題意識に引きずられるのを防いでくれる、ある志向や支持について)

2021-7-005

決めた事を、局面事情に合わせた次善の策すら採らないレベルで、どんな条件だろうと貫くのは、現実の実態に即してないと言えるでしょうが、

条件の違いに反応しない内容の振り回されなさが期待できる、同種の他との差異要素の捨象がベースの論理学やその種のセンスを持ち込めば、
現実から飛躍した体系構築を防げるとの理解は、
その意味(別の飛躍を用意するだけな為、いらぬ飛躍の除去ではない)で誤解であるように思われます。


また、主観の方が客観よりも上位とか、理性は動性を阻害する等の発想も、条件の違いに反応しない内容の振り回されなさから成る肯定を必要とする類であるなら、
否定してるものと同じ処理をしてる為、表層は違えど質的には同じものを、質的にも別物と誤解してる、そう言えるように思われます。


ここで、対象は認識に際し割り引かれざるを得ないと認めながら、一方では、実践や存在論など、割り引かれない領域もあると想定してる場合、

割り引かれ構造自体は不可避という形(世界像)でもって、有限性を受容してるのではないと言えるので、

先の誤解(その結果の、通用が行き渡ってないものを行き渡ってるかのように扱う倫理不全)や、
局面の(深掘りされた)固有性とは無関係(それと捨象対象選定との乖離、特に、理系的捨象センスの文系域への領域侵犯を問題視しない)な捨象行為(理性についての一般的理解含む)は、

割り引いてくるものと分離された屹立が可能かのような存在イメージがその原因でしょう。

(一見不変に見えるものすら、場に合わせた具体化とそのフィードバックは常に有り、静動自体でなく、具体化抽象化の精度が論点、
この全体像に繋がらない為に、つまり、具体化精度を問えないせいで、

条件上の最善という像を踏まえた肯定部分否定部分の分別精度低いままでしか、歴史事象を捉えられない有り様が示唆される。)


そして、そのイメージを、古代や中世の哲学なり宗教なりにおける問題意識に引きずられてる様態の弊害、

つまり、限定化前後での通用量の目減りに対する鈍感さの現れであるいらぬ特化の、注力や枠組みインストールに際する回避を、
志向する姿勢や能力や評価軸の獲得前に、既存の問題意識に触れた弊害と解せば、

通用が行き渡ってないものを行き渡ってるかのようには扱わない倫理性を、ひいては、下で言う運動性への阻害の除去を体現してるだろう、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像、
それに対する志向や支持を、何かができるできないの問題化に先立たせる生への早期移行の生じにくさが、さらなる原因と言えるので、


内外境界(有限性)は場に置かれる事態をも意味する為、有限性前提の世界(我々は有と無の関係からしてそこに内外境界を見出してる)とイコールの、無数にある場(内在場も外在場も)を、
同じ原理(場の最大限深掘りされた固有性の発現を保障しつつの組み上げ)について損なわれてないかどうかで肯定否定する観点に当たる、

被加工自体は常に前提(無加工に見えるものもそういう加工形)として扱い、そのやむ得なさ具合を論点とする
(例えば、価値付けのような体系化を各場に紐付けてないという、各場への尊重の不在でもある帰属失敗事態も、場の固有性に対する検討不全の現れと見る)枠組み、


(無限性も、より確からしいもの、より通用領域の広いものが取って代わる運動性と捉えれば、
ある観点の下でという限定性をその運動性に与えた上での結果のフィードバックを、無限性自身が必要としてるという、有限性の意義にも関わる理解は可能であるし、
その場合、具体化精度の低いものがフィードバックされる展開に対する、観点設定にその運動性を投入する事による抑制が論点になる、

逆に言うと、既存の知的上層の地平が、その運動性を内実には向かわせてない量的なだけの確からしさ判定に留まり、
文系域で、要点抽出の際の観点設定といった、内実に対する不問の常態化を許し続け、
不当獲得含む、各場の本質的要素に帰属してない割り振りに鈍感な世界像しか描けないのは、この論点の埋没故)


つまり、何ら加工されてない状態の準備(抽象化)と引き受けざるを得ない加工条件の追究(具体化条件割り出し)、
それらの統合形と実際の姿との間の距離で対象(自己が見せる反応についての原理も含む)を評価する枠組みへと、

既存パラダイムから差し替える
(さらには、世界像を、上の統合形に最大限寄せているいないの問題だけがあるという像に差し替える)事でやっと、
それらは根本的解消が可能になると考えます。



ところで、ここで言う根本的解消は、例えば、怪我をしてたとして、
してないかのように振る舞う有り様から、してるなりの最善に合わせ込む有り様への移行のようなものでしょうが、

これまでの文系域は、自分で自分を騙せてる(全体枠拡張の忌避による井の中の蛙居座りも込み)ならOK的なノリ
(ドーピングの金メダルのような茶番の受容を強いてくる世界に沿う形)で知性が用いられてきた、その現れとして、

フェア主体アンフェア主体の別なく保障する権利観、先の主体像に近い有り様の産物かどうかを評価に反映しない表現観、
これらが未だにまかり通る状況もあり、

移行(上で言う運動性への阻害の除去)によって、通用領域判定(通用領域の広狭と確からしさとの相関)の精度が上がった割り振り(ポジションや具体的有り様の規定)の管理を、知性が担える、

そんな構造が思われます。



注、
意識を注力的問題解決と見て、注力への言及に含めてたり、

スポーツ選手はもちろん一般の人にも、何ら特別でないちょっとした身体の動きの一瞬(恐らく、その背景にある行動原理の確からしさ)に肯定的衝撃を受ける事もある、といった身体理解も表現観に含めてたり、

(確からしい行動原理として先の主体像の内容を想定してるので、そこへの支持のない状態での身体性への言及は、
林檎を数えられないのに蜜柑はできるから数を数えるが十全にできてるつもり的水準に留まるのでないかと疑ってます)

生も上で言う運動性が、ある観点(この場合、ある種の化学反応連鎖に関する保存戦略を反映させた形式)の下で展開されてるもの
(この場合の観点との関わり方も含むだろう、内在外在に対する反応原理への、その運動性の投入具合が論点)と見た上で、
書いてます。


また、前述の有限性の受容スタイル関連で言うと、

負わされる事負わせる事自体は避けられないと見れば、糾弾するにせよ、確からしい(通用領域の広い)ものかどうかが、引き受けに値するかどうかに当たるとの観点の下での話になる
(不可避なものを回避可能かのように語る帰属失敗を避ける)と思うので、


各場の代替不可能な固有性に即した割り振り
(有限性自体の不可避性や代替不可能化させた有限性形態から成る、引き受けざる得なさを保存してる)に当たるかどうかとは無関係な、負わされへの糾弾や負わせへの擁護は、

有限性と恣意的にしか向き合ってない生(通用の行き渡ってないものを行き渡ってるかのように扱う倫理不全な対有限性)の現れと疑えるように思いますし、

先の主体像との遠近を自他の評価に反映させてれば起きないものである以上、
行動原理の通用領域を検討して、扱いに反映させる働きが、
機能してないせいで、表層形だけ見て断罪する地平(での自由観や損得観など)に留まり続けてる
(にもかかわらず、反差別的との自己認識を持ってるケースすらある)結果と言えるように思います。


(その主体像への支持の不在は、

いらぬ特化への鈍感さを意味する為、
例えば、あるパラダイムをインストールしてると見なせるような状態の下で生じてる何らかについて、いらぬ限定を負ってない場合からのずれを掴まえきれない事態に繋がるわけで、

同種の他との共通要素の捨象アプローチを埋没させてる、これまでの文系者の見せる肯定否定が的の外れたものになる原因であり、
需給成立に長けてるという量的な話と、帰属の操作を生まないとか縮減させる方向の消費や投資といった質的な話とが分断され、世界の歪みを許してきた原因である、

そう推測します。)

ご支援の程よろしくお願い致します。