見出し画像

規範性へのせっかく覚えた違和感を、見て見ぬ振りや大騒ぎ(単なる権益対立)で終わらせない為に必要と思われる理解について(4300字)

2020-9-005

規範の絶対性を問題視して切り崩す的反応が、単なる権益対立の文脈の外に出ないのは、
有限性(内外境界)の捉え方の誤解に起因してるのでないかと疑います。

内在の性質と外在の性質が合わさって現象になる、という現象観(否定と肯定の差は、両性質において代替可能要素まで代替不可能要素扱いされてるとされてないの差)を採用してれば、
感情を加工無くそのまま表出するとか、不確定を不確定のまま据え置くといったケースであっても、
それが許される局面だったかそう勘違いした、つまり、局面把握の精度問題に回収される内在外在統合物と見なすはずで、
外界から受ける限定作用を前提として捉えてれば、自由や解決も、

できない事をできてるつもりになるだけの、限定作用を避ける事が可能かのような方向(望ましくなさへの表層反転反応であり、質を確保しつつ歴史を紡ぐだけの我慢が利かない現れ)でなく、
引き受けざるを得ないとは言えない部分に
(そこの許容は、原理の不在や非提示と同等な、事実上の何でも有り事態、ひいては悪用される隙発生への鈍感さ、つまり、不当な扱いへの理解が抽象不足から表層的である事を意味すると見て)付き合わない
(場の本質に即してる体系なら引き受けるし、即してない部分があっても具体的反応は己の資質や環境の代替不可能な性質次第とする)方向へと向かうはずだからです。



実際、絶対主義と相対主義の振り子(この外に居られる知性が現行の世界標準に取って代わるべき)はじめ、
表層反転(原理次元の検討に向かわない)を最善対応としてるも同然な枠組み内にいる限り、
付け込まれる隙を塞ぐ労力嫌った上での利得(一足飛びの利益)という、
解決の実質面より形式面を先行させる、実力や余裕がない時などに要請される次善の策を、そうでないかのように誇ってその次元に留まり続けてる形なわけで、

要は、有限者が己の有限性の、注力傾向の検討踏まえたこれ以上無理という境界線を探る的代替不可能化(有限者にとっての論点、どう有限化するかについての原理)、
それ以上のものを望んで大騒ぎ(虚無系も符号が逆なだけ)してる構造でしかないように思われます。



同様に、日本人が空気を読む時、
場の代替不可能な固有性にのみ合わせてるのか、表層的要素込みで合わせてるのか、という質の差異を踏まえてる人がどれだけいるのか現状疑問
(少なくとも、場の表層に合わせてる事態に対して場の本質にのみ合わせるよう働きかける枠組みでなく、
場に合わせる有り様への対抗形として、場に合わさないスタイルを欧米参照付しつつ打ち出す枠組みがまかり通ってきたのは事実)という構造が、

場に通用させるという存在性における、場との齟齬解消(言葉の意味合いやニュアンスが、使われる使われないの実態を反映して変遷してく的話)についても言えるとして、

場の本質に合わせたあげく損するなどの限定被るより、ドーピングの金メダルを意味したとしても場の表層に合わせて得する方を選ぶとか、
ドーピング選手が参加してるレースとしてないレースの帰結を事実上同等に扱うといった、
自他の人生や世界の茶番化と引き換えな在り方や、フェアな割り振りという合意点で整合させる秩序を拒んでる形の立場差異に対して許容的なのは、

限界は常にあるのでそれを代替不可能なもの、引き受けざるを得ないものにする、という問題意識が第一に来てない為に、
その場で問われるべき差異と実際に問われてる差異とのずれを無くし、帰結(有限性の具現形)を確からしいものにする方向へと向かう動機が弱いからと推測されます。



ちなみに、他人を呼び込むに際してはフェアな(割り振りという合意点で整合させる)秩序を用意しておく(分捕られる側分捕る側の二択に追い込む形になるのを防ぐ)べきという立場
(これを採らない場合、権益保持の敵か味方かという表層形だけ問題にする枠組みや事実上の何でも有り状況とその弊害を善意から導く枠組みを、
つまり、妥当性への配慮薄い一足飛び利益を、許容してる状態で他者と向き合ってる)は、

情報を受け取る(内面世界に合わせたポジションや具体的有り様を、瞬間処理で通用が十分かどうか含めて、割り振る)際にも拡張可能と見れば、

対人において、局面に即した着目無視に徹した振る舞い(そのような着目無視と振る舞いとの合致問題に鈍感であるなら、表層的要素に対する、符号反転対処含めた大騒ぎに繋がる)をしつつ、
同時に、対象の精神面がいらぬ囚われ(その種の大騒ぎ)負ってる程度を評価し、局面次第では扱いに反映させるような対応(不当利得を許容しない形での、平等と自由の同時希求)が、

対情報においても、代替不可能な偏り(場の本質に即した限定作用)に当たる着目無視を場として用意しながら、
情報が帯びてる体系性(形式や帰結の組み上げが、場の本質を損なってしまってる程度)を評価する像として想像できるように思います。

例えば、(置かれてる場の性質によって規定されてるとか、場から受ける限定作用は前提といった像をまず、対象の扱いや位置付けを規定するその人の倫理や知性を、規定する常識やパラダイムに遡らせ、
限定作用が過剰という意味で、確からしくないものを確からしいものとして扱うよう仕向けてる形の文脈に、情報も置かれ得る点を踏まえつつ、)

対常識や対パラダイムにおける、
特定時空性による加工を一切剥いだものが、引き受けざるを得ない特定時空性にのみ合わせて加工された帰結(加工の前後に関するこの種の内容を理想と現実、無限と有限の関係でも負わせるべき)、
そこからずれてる部分(通用が行き渡ってない事、限定作用が代替不可能化されてない事を意味する部分)の特定や、本来応じる必要ないその部分への具体的反応を、

抽象化と具体化条件割り出しの精度を最大化(捨象対象選定を局面要請と合致)させる事によって確からしくする(咎められる謂れのない地点へとより近付く関係で、ある時点でのそこからのずれをもって評価する過去位置付けにも波及)作業も、
その拡張形の反映と言えるとなれば、フェア志向でない場合、情報が帯びてる体系性に対し、いらぬ偏りが実際にあったところで盲従か表層反転反発の側面有した対応しか期待できないと疑えるわけです。

(意見や反応は、その人がある観点の下でできるだけ通用性の高いものが選ばれるように望んだ結果と言えるのに、ドーピングの金メダル的茶番な選抜、張りぼてな選抜物である可能性と向き合ってないなら、
低いものに対する高い扱いという不当な扱いへの許容である為、不当な扱いを非難したい時にその説得力が下がるのに加え、
そもそも、不当な扱い現象に対し林檎は数えられるけど蜜柑はできないレベルの理解しか持ってないと疑える、

少なくとも、観点と場との一致不一致に敏感でない以上、割り振りを決めるのは場であり、割り振られのフィードバックによる変遷についての妥当性含め、場の性質把握の内実が問題である、との転回は生じてないので、

常識やパラダイムとの付き合い方にまともな原理を欠くなど、通用性判定のいらぬ偏り対策に難がある事態の事実上の放置は、自己なり大切な何かなりへの不当な扱いの放置とも繋がってると見て、
たとえ肯定的な方向で情報が提示されてようとも、その種の警戒が必要でしょう。)



恐らくは、無限性(通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性)と有限性の関係(双方共、誰にとっても常に与件であるけれど、両者の間にある関係)が、
有限化される前後という形式面は分断不可能としても、どう有限化するかという内容面について分断的(有限性の代替不可能化が原理になってない)である場合に、

上で言うずれが許されてしまい、倫理や知性が不当な扱いや不当な位置付けを生んでしまう
(近代パラダイムは捨象に関する上で言うずれを、同種の他との共通要素の捨象程度という差異性の無視の常態化という形で、抱えてるのに、未だ倫理や知性を縛ってる)という構造が問題なのだと思われます。

無限性は自己足るべく歴史性(仮説と実証の間にあるような、抽象と具体の行き来による確からしさ向上)を、つまりは、具体化条件としての有限性を要請しており、
フィードバックをより確からしいものにすべく、具体化や抽象化に相当する部分にも無限性は働いてるけれども、
我々は、何についての確からしさが問われてるのかという判断に成功してると(有限能力故の上限はあれ、無限性を機能させる事が十分できてると)勘違いしてしまう。

そこの勘違い(低通用物への高通用物扱い)を縮減するのに、まず対応原理(対応の質)をできるだけ確からしくするという点で必要になってくるのが、
(例えば、林檎も、まだ見ぬものも数えられる的に、具体形の差異パターンに対して開いておく捨象は、逆に言うと、獲得情報の上限を無意味に下げずに済むので、情報量問題的にも)
捨象をフェア志向な内容にする作業(上で言うずれの解消)であり、

捨象の質確保(場との齟齬解消)よりも権益が先行して、削れるタイプの勘違いが保存されてしまうのは、先に見た存在性の捉えにおける内容面分断故
(採用原理に不備ある事態への警戒が理系域に実質限られてる、という傾向を持つ分断)。
そのように解し、倫理や知性を分断の解消された両根源的与件と紐付けましょう。



別の角度から言うと、
主権なり財産権なりの使い方の実態があり、これを可能にしてる権利観があり、それを解決枠組み扱いしてる倫理や知性があり、それらの傾向を規定してるパラダイム(捨象対象の選定偏向)がある、

ここに、実験値と理論値の誤差と言えない乖離(理系者の研究腐心対象)のようなものを見出したり、
同じ基盤を持つ対問題全般に対し採用してる対応原理からして不備(林檎を数える事はできないけど数を数える事はできてる的な満足)を抱えてる扱いする根拠を見出したりが、

哲学者にすら見受けられないと言われても仕方ない、
この現状(文理の差は、言語化が差異の表層をなめすだけの洗練に終始するのを防ぐ上でのベースが、同種の他との共通要素捨象か、差異要素捨象かの違いでしかないだろうに)をまず認め、

張りぼての金メダル(ドーピングによる金メダル)をまるで実質があるかのように誇る的な内実を、己の選抜した意見や反応に(肯定否定という内容を伴わせつつ与えた内外への影響に)持たせない為にも必要になってくるフェア志向と、
採用原理(他者の印象というレベルで把握した行動原理含む)の不備への警戒とを結び付け、
取り上げる差異の選抜原理の修正から始めて対問題を再構成しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。